汁説 織田信長 『第6回 傾奇者織田信長と尾張の統一』 | C.I.L.

汁説 織田信長 『第6回 傾奇者織田信長と尾張の統一』

さて、今までは織田信長という革命児が生まれた 『土壌』 を説明するために、なるべく時系列に沿った形で進めてきた。


が、今回からはその形式を捨てて、問題点をもっとピンポイントでえぐるような書き方に変えようと思う。


その理由は 「信長の人生を順序だてて語ってるといつまで経っても終わらないから」 である。


いやー、歴史物を書く難しさを思い知りますわ。




で、前回は信長が急死した信秀の跡を継いで、尾張統一に向けて動き出すところまでだった。


まずはこの信長のスタート地点がいかなるものだったかを再度説明しよう。



第一に、尾張守護の斯波氏はすでに傀儡と化しており、名目上の存在に過ぎなかった。


だが尾張守護代の織田信友は健在で、厳密に言えばこの時点での信長は織田信友の家来に過ぎない。


さらに信秀時代には大人しくしていた尾張国内の連中も、代替わりした信長に対しては 「隙あらば」 と目を光らせている状況だった。


兵力的にも決して他を圧倒していたわけではなく、父親に尾張半国の主の座を譲ってもらったものの、内に外に敵を抱えているという危うい立場だったのである。


だが信長はこのような決して有利とは言えない状況から、家督を継いでからわずか8年で尾張の統一と、その直後の 『桶狭間の奇跡』 へと突き進んで行く。


とりあえず、ここまでの信長に関する年表を簡単にまとめてみよう。


・1534年5月11日(12日説もあり)
織田信秀の三男として誕生


・1538年
信秀が信長(当時吉法師)を那古野城主に任命。


・1546年
古渡城で元服の儀を行い織田信長を名乗る。

・1549年
美濃の斉藤道三の娘(帰蝶・濃姫)と結婚。


・1551年
信秀が没し信長が家督を継ぐ。また弟の信行が末森城主となり、柴田勝家や佐久間信盛らがこれに付き従った。


・1553年(1549年説もあり)
信長と道三が正徳寺で会見。(ちなみにこの正徳寺とは、なんと一向宗の寺である)



さて、幼少期の信長はその奇行の多さから 「大うつけ」 と呼ばれていたと言われているが、その理由は大まかに言うと以下のようなもの。


1.婆娑(佐)羅(バサラ)とか傾奇者(かぶきもの)と表現されるような振る舞いが目立った。

2.警護も付けず街中を徘徊したり山中に入り込んだりと無謀な行動が多かった。

3.ガラの悪い人間との付き合いが多かった。



だがこれらは当時の 「お利口さんから見た場合の価値観からしてみれば」 というだけの話で、信長からしれみれば 『褒め言葉』 だったかもしれない。


まず1についてだが、婆娑羅とはそもそも 「古い権威や常識を否定する」 「独特の美意識を持つ」 「自分の信じた道を突き進む」 という 『生き方を表現する言葉』で、実は信長の時代の200年以上前(1300年代の南北朝時代)に流行したものだ。


その 『婆娑羅な生き方』 を貫くにはどうしても金やバックボーンが必要になるため、実質上大名クラスや良家の人間でなければ、満足なバサラ道を歩むことが出来なかった。


よって後に 『バサラ大名』 なる単語まで生まれることになる。(バサラ大名として古くて有名なのは佐々木導誉とかで、信長時代だと松永久秀とか、後期の信長自身じゃないかと)


破天荒なだけでも趣味人なだけでも婆娑羅とは呼べないから、今の言葉で表すなら 『金持ち限定の命がけの反体制パンク兼デカダンス』 とでも言うべきか?(イメージ的には 『大金持ちで芸術にも精通した雲のジュウザ』 とか…)


婆娑羅と比べると比較的新しい言葉で、ちょっと貧乏臭く感じるのが 『傾奇者』 なんだが、これにしても 「常識を鵜呑みにしたくない」 「自分の思った通りの生き様を貫きたい」 という強烈な意志あってのもので、精神的には婆娑羅とそれほど変わらない。


今の言葉で言うと 『趣味の時間を大事にするリアルパンク』 か…?(うわ段々自信なくなってきた)


なんかいつの間にか 【婆娑羅と傾奇者】 というタイトルの文章のようになってきてしまったが、分かりやすく言うと金持ちじゃなきゃできないのが婆娑羅で、貧乏人でもできるのが傾奇者だ。きっとそうだ。とりあえず話が進まなくなるからそう思っておこう。



で、信長も若い頃はこういった 『奇抜な格好をして世の常識を鼻で笑うような子供だった』 と。


それを根拠に信長を 「奇人だ!変人だ!」 という人がいるのだが、それはちょっと思慮が足りないと思う。


なぜなら、これは信長が 『父親の背中を見ながら様々な事を学んで育った』 という一番の証拠だからだ。


なんたって信長の父信秀こそ、尾張の国の序列とか権威を (金にものを言わせて) ぶち壊してのし上がった張本人なんだから、そんな父親のやり方を素直に学べば、当然のごとく古い権威や常識に縛られない子供になるだろう。


で、このことは2や3にも繋がってくる。


最近は 「街中を悪ガキ連中と徘徊していた」 とか 「ぷらっと山や川や海に出かけたりしていた」 という逸話に対して、信長を擁護する意見が増えてきているんだが、こうした 『幼少期信長擁護論』 を口にする人は、皆だいたい 「信長はそうやって尾張の国を隅々まで調べ、同時に自前の家臣団を作り上げていたんだ」 という意見を唱える。


オレもその見方でほぼ間違いないと思うんだが、その理由は青年期の信長の 『尾張国内での活動内容やスピード』 を考えればおのずと分かるように思う。



・信長は幼少期から、将来自分が納めることになる国の衣食住や宗教といった生活の実情、街道や細い山道、流通形態などを調べて熟知していた。


・代々の世襲ではなく、自力で探し出した 『信用のおける自分だけの家臣』 を集めていた。


と考えねば、その後の 『尾張統一』 も 『桶狭間』 も、さらに言えば 『兵農分離』 も 『楽市楽座』 もなかっただろう。


さらに言えば、信秀が信長を跡継ぎに決め、重臣たちに何を言われようと変えなかったのは、信長が傾(かぶ)くのに理由があると分かっていたからだろう。


オレは織田信秀は自分で尾張を統一してから信長にバトンタッチするつもりだったと思っているんだが、恐らく信長の方でもそう思っていたに違いない。


跡継ぎなんだから信秀の存命中に 「オレが尾張を統一すっからそっから先はお前がやれよ?今のうちに勉強しとけ?」 くらいのことを言われていた可能性もある。


だからこそ信長は信秀の早すぎる死を誰よりも悲しみ、また絶望感を味わったのではないかとも思う。(この辺は灰を投げつけた逸話が本当だったらの話になるけど)



だが信長は、自身の最大の理解者でありタニマチでもあった父親の、『予想外に早い死』 という最悪のアクシデントを乗り越えることができた。


この凡人ならば即座に命を落としてもおかしくない危機的状況を救った要因こそ、信長の 『自分の思った通りにしか生きない傾奇者らしさ』 なのである。


もしも信秀の跡をついだのが 『当時の価値基準での優等生』 だった織田信行あたりだったとすれば、言いかえるなら信長の傾奇者ならではの 『常識を常識と思わない決断力』 がなければ、守護や守護代といった古い序列を壊せず、さらには織田の宗家に対しても気を遣い続けねばならなかったように思う。

信秀の残した遺産が大きかったとはいえ、それだけでは決して尾張統一などできなかったのだ。

家中の決め事などは、父親や祖父の代からの世襲の重臣たちの顔色を伺いながらでないと決められず、かといって自分の意見を押し通そうとすれば、いつ家臣に暗殺されるか分からない。


そんな状況ではいたずらに時間が流れるばかりで、決して信長の思うような 『革命的な仕事』 はできなかっただろう。


となれば、国内の内紛に追われて今川義元の侵略に成す術もなく散っていたに違いない。(その前に織田家を見限った斉藤道三に侵食されてたかもしれない)

だからこそ信長は、幼少期から誰が敵で誰が味方なのかを冷静に見定め、自分に忠実な自分だけの家臣を集め、来るべき時に備えていたのだと思う。


若い頃の信長が傾奇者だったという事実には、このような切実な事情があるのだ。

結果論のようになってしまうが、信長が自分の思った通りにしか動かず、自分の頭で納得できることしか認めず、一度決断を下したら他の何を差し置いても最短時間で目的を達成することに全力を尽くす性格だったからこそ (これらを略して傾奇者だったからこそ)、父親の成し遂げられなかった尾張統一を20代で果たし、桶狭間の奇跡を起こし、後に様々な 『エポックメイキング』 をもたらしたのである。



さてそんな信長には婆娑羅的・傾奇者的な性格の他に、「情の薄い人間」 「冷酷」 というイメージがあるように思う。


だがこれも実は事実に反している。


例えば、斉藤道三が息子の義龍に敗れて死んだ時に、柴田勝家や林秀貞らが織田信行を擁立して、美濃との協力体制を失った信長に反旗を翻したのだが、信長は信行一派を敗走させた後に許している。


ただし、翌年に信行が再度信長の命を狙ったため、この時はさすがに暗殺という形で信行の命を奪っている。(柴田勝家らはこの二度目の謀反の際は信長派に鞍替えしていた)


実は信長が肉親に対して冷たい仕打ち (といっても信行の場合は自業自得) をしたのはこの件くらいなのである。


尾張の統一事業においても、織田姓の敵対勢力に対してなるべく穏便な手段を用いており、信長が命を奪った織田姓の人間は、著名な人物では織田信友 (尾張守護代) と先に述べた弟の信行くらいではないだろうか?


信友の殺害に関しては、信友が尾張守護の斯波義統を殺したため、その仇を討つという大義名分の下に事に及んだわけで、決して非難されるようないわれはない。(ちなみにこれによって清洲織田家が滅び、信長が尾張織田家の事実上のトップの地位を確保した)



さらに自分の妹や娘を嫁に出すにしても、滅多に (人質目的の) 政略結婚などせず、主に自分の家臣との縁を深めるような縁談しか結んでいない。


例外がお市の嫁いだ浅井家と、五徳(お徳)の嫁いだ徳川家なのだが、それもその当時は浅井家と争うことになるなど 『信長本人が思っていなかった』 だろうし、徳川家との問題にしたって五徳と信康が離縁し 『信康の死』 という結末を迎えるなど考えてもいなかったろう。


信康と五徳の関係について、一般に 「五徳が信長に家康の正妻と信康の謀反を伝えた」 のがきっかけだと言われている。


だがこれを受けて信長が徳川家に送ったとされる詰問状は、後世の捏造(もしくは修正されたもの)だという説が浮上してきているし、なんといっても五徳自身が信康の助命のために信長に直訴しに行こうとしているのだ。


よって、この信康自刃事件は明らかに何かがおかしいと分かる。


だがこれについて語っているとまた長くなるので涙を飲んで割愛する。



話を戻すが、実は青年期の信長は 『誰よりも一族や仲間を大事にしていた』 のであり、家臣に対しても苛烈な裁きを与えることは滅多になかった。


これは有名な逸話だが、羽柴秀吉の妻のねね(おね)が、秀吉の浮気癖について信長に密告(?)した際に、信長は 「あんな禿鼠にアナタのような女性はもったいない!アイツにもそのくらい理解できてるだろう。」 といった内容の返事をしている。

この話からどのような信長像が浮かんでくるだろうか?

信長が世間一般に言われてるような情に薄い怖い人物だったなら、秀吉の妻はこのような 「すんごくどうでもいいプライベートな話」 を持ちかけたりしただろうか?

信長が実は人情味溢れる面倒見のいい性格だったからこそ、秀吉の妻は亭主の浮気について 「気軽に」 相談しに行ったのではないか?


そんなお人好しな信長がおかしくなり始めるのは、実は 『浅井長政の裏切り』 (これについても色々と言いたいことがあるんだが、今は裏切りとしておく) の後のことである。


それまでの信長は 『なるべく血を流さない方針』 に則って領国を運営していたのだ。



という訳で、長くなってきたので今回はこの辺で。



次回は 『信長の宗教観』 か、もしくは 『信長の人間性』 について語ってみようと思う。(まだ未定)