お疲れ様です。


私は宮神布教所所属の山下雄大と申します。


ご縁がありまして私の思うところ書かせていただきますので、お読みくださると幸いです。




これを書く2ヶ月ほど前に友人と話の流れで少年会の誓いの言葉を思い出して少し語り合いました。




「私は天理教少年会員です。


 教えを守り、ひのきしんに励み、互いに助


 け合って、立派なようぼくに育ちます。」




どうでしょうか。


私は今年で32歳になりました。


一応青年会員です。


皆さんは誓い通りに育っていますか?


私は残念ながら育っていません。




教えを守りきれず、社会で働いている私はひのきしんに励めず、助け合っているかと言えば家庭を持った身であるので、我が家を優先する事もしばしば。


これが立派な用木でしょうか?


名ばかりの用木でしょう。




友人と話し、「立派な用木」という誓いの重みを初めて感じました。


そして皆さんそれぞれにもお考えいただきたいと思います。あなたの立派な用木は何でしょうか?少年会員が終わりあなたは立派な用木でしょうか?。いつ立派な用木になるのでしょうか?




私は皆さんを責めたい訳ではありません。おそらく多くの方が真面目に考えてくださったと思います。


私は友人と話し合った後すぐには反省の念に駆られました。


しかし、今思い直すと、そもそも少年会員の誓いが無理があるのではないかと思ってまいりました。


よく理解も出来ない子供に流れで誓わせて、


立派な用木の定義も曖昧なのに。




もちろん1個人の見解です。


これが正しい訳ではありません。


ここで私が今回1番お伝えしたい事は、まず自分に反省点はなかったか、改善点はなかったかを考え、そして相手にも改善点はなかったかを考えれる観点を持つ事です。


ここが重要です。


信仰者の多くがまず自分を省みることから始める事が多いと思います。


これは素晴らしい点だと思います。しかしそれだけではなく、そもそもの仕組みや相手に誤りがないかを考えなければならないと考えます。


それはなぜか。


後世の人も同じ反省を繰り返すかもしれないからです。


相手を責めるのではなく、改善を探るのです。これがミソです。


これにより、自分も成長し、後世へもより良い環境が生まれると私は思っております。


注意点としては、まず自分を省み、そして周りを見る。この順番は間違えてはいけません。順番を間違えると争いが起きることにつながるのだと思います。






途中から急ハンドルをきった文章になったと思いますが、ぜひこの観点を持ちあわせていただけたら、これからの天理教について談じ合いの場が広がって、いろいろと改革が進んでいくのではと思います。




生意気な事を申し上げて失礼を致しました。


文章力がないので読みづらいところもあると思いますが、ご理解いただけましたら幸いです。




補足です。↓




 昭和42年4月1日「天理教少年会員のちかい」が発表されました。


 このちかいの言葉は銘々の真心を親神様、教祖にお誓いするものであり、まず、一人一人が「天理教少年会員」である自覚をもち、少年会の生みの親である二代真柱様の思召に応えて、小さい時から三信条を体得させて頂きたいとの思いをこめて「神一条の精神」を“教えを守り”という言葉で、「ひのきしんの態度」を“ひのきしんにはげみ”で、また「一手一つの和」を“互いにたすけあって”と表現し、天理教少年会員の目指すところを“立派なようぼくに育ちます”と締めくくっています。




 「三つの信条、神一条の心と、ひのきしんの態度と、一手一つの和を、小さい時分からしっかりと教理という理屈ではなく、習慣という身についたものとして頂きたい」


 (2代真柱様お言葉 昭和42年10月29日)


天理教少年会ホームページより。