コラム 重要

 

国際金融機関の考え方は、どの国に対して、いつ計画を立てても、軸となる政策は引き締め政策である。服部氏は、ウガンダ中央銀行総裁になり、その後(1965年)現在まで、つまりウガンダから、タイまで、ほとんど同じ政策の提言である。この間、国際金融機関はほかの政策を考えなかったのか。支援が遅すぎたとか、小さ過ぎた、などと弁解するだけであった。雁行形態論と同様に強調したのは、自助努力の重要性であった。重要なのは、成長への意欲であり、ロックウッド流にいうなら大切なのは「何がなんでも成長するぞ」という意欲である。成長の源泉は成長への意識だというのである。

 

 

<コラム>革命か、改革か                        

1976年10月4日バンコクの夜はいつもと同じ静けさだった。違うのはテレビなどが、忙しく飛び回り、軍隊の動きを追う姿であり、議事堂周辺だけが騒がしかった。ラジオ・タイランドは5日正午過ぎから革命という用語の使用を避け、改革という言葉を使うようになった。新聞も町中の兵士に少女が花をささげるなどという写真を掲げるようになった。革命色を薄めようということのようだが、現実には憲法などの規定にそって議会のしかるべきポストを得ていた。そうした栄誉を革命軍ははく奪した。

 

75年に首相に就任したククリットは、タンボン計画を実施しはじめた。各村に配分した開発資金を使い、王室所有地を活用して、小作農対策を行おうとした。しかし、この計画は短命であった。ククリットが、764月の選挙で落選したからである。同じ年の秋に首相になったターニンは、閣僚を含む高級官僚に帰省を促し、開発プロジェクトを実施させた。タンボン計画が巨額の財政資金を必要としたのに対して、ターニンによる農村開発は高級官僚の自己犠牲的事業として実施された。道路修復とか、橋の建設とか、多くの公共投資事例が報告された。しかし、報告のほとんどが捏造であった。

 

忘れられた農民に手を差し伸べたのは、国王であった。キングス・プロジェクトを実施し、見学と称する外交団との視察会で、農民との対話を楽しんだ。政治家の多くが農民を忘れるなかで、農民に暖かい目を向けた政治家がでた。タクシンであった。30バーツ診療を実施し、債務救済政策を実施した。タクシンに、農民が圧倒的な支持を与えたのは当然であった。しかし、国王のへの説明が、タクシン養護に結びつけられた。農民は、債務返済猶予の恩恵をこうむり、格安で医療を受けることが出来るようになった。農民が政策の中心になったのだが、タクシンから国王への説明に誤解の種があったのである。