<コラム>タイ株式会社論

典型的な議論が、タイ株式会社論が出されたころにあった。経済担当ブンチュウ副首相は世銀報告をさらにおし進め、徹底した民間企業育成論を唱え、社会資本の充実さえも民間に委ねることによって、行政能率を改善しようとした。大型プロジェクトの申請は首相が直接に受理し、即決する。国営企業はすべて民営化するなどと提言した。タイ株式会社論は、やがて民族主義的な軍部を中心とするエリート官僚の議論のなかで力を失っていった。しかし積極論は、シャム湾で発見された天然ガスの商業生産という新しい事態に至って、むしろ高まっていった。

 

<コラム> タイ、閣議のIT化

タイ経済とタクシン関連事業の相関的成長が、彼の企業のための経済政策であるという悪評に導いた。しかし、政策とは、伸びる業種を伸ばし、低迷する産業を活性化させることである。現代において、コンピューター関連業種の発展を制約する政策を取っていいのか。時代が、タイの成長と彼の企業の発展を同じ方向に動かしているだけであり、政策の失敗と断定するのは、酷すぎる。03年5月タイ政府はコンピューターの国内普及を計画して、デスク・トップを1万バーツ、ノートを1万9千バーツで売り出した。6万円ほどのパソコンに人々は飛びついた。受付会場のシリキット・ホール近くの道路は大混雑した。あまりの評判に、ウインドウズも、XP ホーム・エディションを1500バーツで売り出した。さらにタクシンは、提出資料をDVD CD に限るとし、閣議をペーパーレスにするよう厳命した。閣僚にコンピューターを学ばせ、公務員に資料のコンピューター化を強制した。閣議のコンピューター化は、社会全体のコンピューター化を促した。

 

次の世代も動いている。タイの高校生が生物、化学、数学などの国際的テストで連続して金、銀、銅のメダルを取っていることを、日本人の何人が、知っているのか。お寺での教育が中心であったころ、タイでの理科系教育は不足していた。チュラロンコーンやタマサートなどの大学は社会科学優位の大学であった。本格的な理科教育が始まったのは、日本の援助で実力を高めたキング・モンクット大学からかも知れない。コンピューターの波が、理科教育の重要性を教え、理科系の学問を学ぶことが伸びるチャンスになった。05 年に、タクシンは、全国の小中学校にパソコンの配備を決めたが、06 年にスタートした革命政府はこのプロジェクトを実施しないこととした。革命政府の姿勢を肯定していいのか。タクシンの政策は首相関連企業を助けることであるとして切り捨てていいのか。

 

タクシンの統治術のひとつは、任免権の活用である。閣僚人事はもちろんのこと、公務員も、任免権を軸に、官僚を働かせた。ある高級官僚は「働いていた人は、いっそう働くようになり、働かなかった人の目の色が変わった」と表現した。「1月以内での成果は期待しないが、半年たっても、成果のない職員に与えるポストはない」。元首相の成果は、官僚を操作することで高められ、この動きが民間にも及んで、旧態依然たる企業を覚醒させ、マイペンライとサバイの世界を打ち破ろうとしている。タクシン元首相は、高校生の視野の広がりや政府全体のIT化という見事な前進意欲からの政策を実施しようとした。韓国では、記者がパソコンで記事を書いている風景が見られるが、日本では、まだ紫の袱紗が大きな役割をはたしている。近い将来、日本はタイに追い越されるのだろうか。