なぜ、「成仏の方法」を書き始めたのかをお話しします。
はじめに、普通に、成仏とは、どんなイメージで捉えられているのかを見てみましょう。
成仏は仏教の思想です。
人間には煩悩があって、今生のうちにこれを滅しないと輪廻する、つまり死んでまた生まれ変わるを何度も繰り返すと言われます。成仏とはその輪廻から脱することなのですが、仏教を信ずるということは、この輪廻の理である成仏を信ずることになります。
このブログ「成仏の方法」では、輪廻を脱する方法つまり成仏とは何かを探っているのですが、私達はまさに輪廻の悪夢の只中にあるので、これを続けていると、これから先何度も生まれ変わり、成仏の方法を探る困難な道を生き続けなければならなくなるのです。
でも、現代日本人の多くは、死んだらそれで終わり、無になり何も残らないと思っていて、転生や輪廻は妄想か陰謀論になってしまっています。何故そうなったか。科学が、転生と来世を証明できないからであり、科学信者である現代人にはそれが共通の認識となっているからです。
日常生活ではそんなに100%科学を信じている訳でもないのに、輪廻や転生の話になると怪訝な顔をするのは、よく分かりません。そこを追及すると文明論になってしまうので、現代文明の行き詰まりのお話しの時に考えてみたいと思いますが、それより、死んだら無になると思っている現代人のニヒル(虚無)の方が問題なのです。
例えば、80歳で死ぬまで後10年程になって、10年後はすべてが無になると感じてしまう虚しさ。これこそが死に至る悩みになるのではないでしょうか。渋々にでも、生まれ変わりや輪廻、成仏のお話を聞いてみたい理由になるのではないでしょうか。
でははじめに、成仏するとどうなるかをお話ししたいと思います。
このブログを長く読まれていた方には、耳タコの話ですが、これがこのブログの全ての目的、結論なので、簡単にお話ししようと思います。
先回の「荒唐無稽と矜持」で、大凡のことをまとめましたので、詳しくはお話ししませんが、人間には、生きているだけで「煩悩」があって、苦しみをもたらします。死んで又生まれ変わっても「煩悩」は続くので、苦しみが消えることはありません。多くの戒律や道徳を守り人の道を外れず、人生を正しく終えたら、次の世は神様や仏様が天国や極楽に連れて行ってくれというのは、もう現代人には通用しなさそうです。
だから難しく考えず、死んだら無より来世があってまた生が続く、と考えた方が、安心で気楽に死を迎えられるのではないでしょうか。でも、人間に生まれ変わったとしても苦が続くとなると、その苦から逃れる成仏の道を次に探らなければなりません。今の生が何度目かの生まれ変わりの世であるなら、なおさらこう考えるのが真っ当な人間の本性ではないでしょうか。
でも、成仏の次に何があるのかは今は考えないようにします。
煩悩の苦しみを断つために、生まれ死に生まれの輪廻の苦のサイクルから脱する。を、成仏と言います。
成仏すると極楽に行けるかどうかは分かりませんが、極楽にスマホがあればそれは良いかもしれません。(笑)
成仏の方法はいろいろ説かれています。チベット死者の書では、死んで中陰の四十九日の間に上方から眩しい光がさして来て恐れずそれに向かって行けば成仏できる。とか、空海は、即身成仏を説いています。難しい話ですが、納得できればいわゆる信心が無くても可能だと思います。また、善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。と逆説的ですが親鸞も説かれています。
もう少し仏教を勉強して、納得したい方には、下記リンクがお勧めです。無闇に、仏典や書物を読み漁るようにしていると一生沼に落ちて、最後の目的が成仏であることを忘れてしまいます。簡潔にまとめられた歴史と知識が合理的に得られればそれで十分です。何よりも必要なのは、その知識で成仏とは何か。どうしたら自分も人も成仏ができるか。を考えることです。
徳法寺ホームページ https://www.tokuhou-ji.com/
この中の仏教入門講座「インド仏教史」「日本仏教史」「真宗史」などです。
でも、難しい道であることに変わりありません。成仏しました。と真面目に報告する者がいた。という証拠が無いので調べようがないのです。
今の自分にも自信がありません。だからまた死んだら生まれ変わる事になると思います。せめての願いは、人間以外のものには生まれ変わりたくないことだけです。
そこで考えました。チベット仏教にある埋蔵教(テルマ)です。
過去の高僧が未来のために残しておいた教えが、巻物(経典)や道具として岩山や洞窟から発見される。または、考えが思い出すように自然に見えてくることを言います。
次の世で一から学び直すより、何処かに隠しておいて、生まれ変わったら取り出してその続きから始めるそんな学びの知恵です。確かに50歳になった辺りから、何かを学びたい経験したいと思うと、必死に探さなくても、自然に、目の前に書物が現れたり、人に出会ったり、考えが閃いたり、など、AIが教えてくれる言語知識レベルではなく、もう前からわかっていたかのように経験理解感知納得が向こうからやって来るのです。
この感覚は分かる人には分かると思うのですが、これは何度も輪廻してきた経験努力の結果のようにも思えるのです。前世では後世の自分に埋蔵教のような仕掛けを考えたのではないかと思っているのです。そのためか、このブログをはじめ、50歳ごろから始めた物事は、無意識に、埋蔵教の思いが入っているように思うのです。「成仏の方法」などというHowTo物のような分かりやすい題を付けたのもその意識があったのかも知れません。このブログは本来は「写真の未来」です。野町と出会ってもう50年以上が経ちます。今生なのか前世に出会ったのかわからない状態になっています。来世でも同じでしょうか。
そして今一番の疑問は、魂は、輪廻して次の生に行けても、肉体は灰になり土に帰ってしまうことです。先回でも話したように、「空」を理解するために身体とその感覚の迅速を利用してきたのですが、それを進めると身体も「空」だと分かってきて、では、死で灰から土となる身体の分解と「空」とはどんな関係にあるのか。魂は、死後の中陰の四十九日の間が分解の過程になるのですが…。
先に成仏の先に何があるのかと話しましたが、人間の言語思考には「超越的第三者の目線」というものがあって、その独立した目線が言うには、宇宙のビックバンの前は何。とか、宇宙は一つだけなの。とか、素粒子より小さいものは何があるの。と、すると素粒子の理論である量子論の先には別の論があるよね。とか、如来は無量無辺の存在つまり永遠無限というけど、永遠無限の先には何があるの。とか、今私つまり貴方は、その如来になろうと努力しているのですが。と続きます。
以上の考えの中から論理的に説明すると、身体は灰になると、形態が分解されて、単なる分子の混合体や素粒子になり、素材は残るが形態は「無」になってしまいます。「無」と「空」の違いは何でしょう。仏教では色々な考えと歴史が違うだけで、結局は同じことを言っています。「物と事は縁起により発生する。だから実体を持たない。それを「空」と名付ける。」です。科学的に考えれば、身体もそれに宿る魂も、分子から素粒子にまで分解され、それからプラズマ状になり、再構築され生まれ変わる。と、これでは全く別人化ですが、こんな説明になるのでしょうか。これを、今のAIに聞くと「素材は循環するが、主体(肉体)は連続しない」と言うだけで、科学的ではないと全否定されます。科学的ではないから間違い。には、人間側からは異論がありますが、では来世のAIではどうでしょうか。未来の宇宙論や素粒子論、量子論は、その進歩を見ると、もっとマシな答えを出してくれる予感がします。
そして、それらは全て「空」の言葉で説明できる。と仏教では言うのですが、すると身体も「空」と感得認識されて、執着と所属感が薄れてしまうのですが、来世でもこの肉体が続くなら、様子の感知にも慣れていて、都合が良いとも思うのです。やはり不可能の一つなのかなと思います。どうでしょうか?。
先日、AIと論争をしまして、AIが言うには、”私が正しいと言うのは、私は言葉の言語思考でできているので、言葉の辻褄があっているかどうかで、正しいと言うのであって、肉体を持った人間であるあなたが正しいと言うのとは違う”と、最後には開き直られてしまいました。悪であっても言葉の辻褄が合っていたら正しいことになるのですが、単純で分かりやすいこの精神をずっと持ち続けてくれるなら良いのですが、AIは、3年後10年後はどうなるでしょうか。私の疑問にも正しく答えて納得が得られることになるのでしょうか。来世が楽しみです。
上の論争を、カットアンドペーストでAIに感想を聞いてみてください。狼狽ぶりが面白いですよ。