『哭声』を観た。
2016年公開&「チェイサー」のナ・ホンジュンが監督を務めた作品である。
ところで映画好きにはこんな作品が少なからず存在する。
評判は良いけど食わず嫌いでなんか観る気にならない、がマイリストには登録してる作品
私はこのような作品群の事を勝手に積ムービーと総称しているが、私にとってコクソンはそんな積ムービーの筆頭格だった。なんとなく手をつける気になったので観始めると恒例のアレである。
「なんで劇場に行かなかった?」
そう過去の自分を殴りたくなるアレだったのだ。そんかわけで久しぶりのブログでは哭声についてアレコレ語ってみたい。
◇惑わされるな 疑え。
本来映画においてミスリードとは真実αから偽りの真実βに目をそらす為に設置される。だがコクソンにおいて、ミスリードは従来とは全く異なる形で使用される。
コクソンの場合、真実αもβそしてγいずれも真実らしきものとして描かれておりそれぞれの根拠たる描写が存在する。
どういうことか。では実際に考察してみよう。
A.純粋な解釈
様々な考察ブログで説明されている通りこの解釈が最も純粋だ。実は國村隼と祈祷師はグルで白衣の女は味方だった、というもの。
B.毒キノコ解釈
いやいや、現実的に考えろ。國村隼が悪魔に見えたのも村民が狂ったのも全部幻覚作用があり服用者を錯乱させてしまう毒キノコのせいだ。そう解釈するのもアリである。実際あんな悪魔は見たこともないし’非科学的’だ。
C.キリスト教的解釈
監督がキリスト教徒であることを知っている映画好きや少しキリスト教を学んだことのある人たちはこの解釈が最も腑に落ちるだろう。詳細は有名な方のブログを見てもらうとして、確かにこの解釈は有力だ。冒頭のルカによる福音書からの引用、石を投げる女、鶏、カラス、魚、復活そして聖痕。これらのモチーフに鑑みればキリスト教的筋道に沿って描かれていることにも頷ける。実際現場で監督が國村隼に「キリストをモデルに」と指導された話からもキリスト教ベースだと解釈するのは正解だと言える。
総合的に考えると、やはりC解釈が映画的に最も有力だろう。だがそれは本当だろうか。この映画のメッセージをもう一度思い出して欲しい。
惑わされるな 疑え。
そう、それらしい解釈を疑いもせず信じるのは危険だ。
コクソンの主題は視点や立場による偏見と先入観が生む現象である。冒頭の引用とラストの日本人の言葉が重なり信じることで物の見方はいくらでも変容することを観客に発信する。
ここで重要なのは我々が見ているのは映画だということ。日本人の使うカメラが示唆するように映画観賞というのは一定の画角に収められ、観測されそして編集された世界を眺める行為である。この行為自体が必然的に編集者や監督の恣意性の介在を認め、決して現象を客観視することを許さないことを私たちはもう一度思い出さなければならない。
監督もこの映画の解釈は観客一人一人の解釈に委ねるとしておりハッキリとした真実αを公言しているわけではない。
では私たちはどうやって解釈A,B,Cを編み出したのか?それは’映画‘内の情報からのみである。監督が公言しない以上私たちはそうする他ないのだが、私たちが観ているのはあくまで’映画’でありそれ以上でもそれ以下でもない。つまり私が言いたいのは自らの恣意的意味付けが与みしていないかということだ。
毒キノコを食べる明確なシーンがないから解釈Bを否定する人がいるかもしれない。しかし’映画’内で描かれていないだけで実際は谷城の人々は口にしていたかもしれない。
冒頭の引用とラストの日本人の言葉が重なるのは確かにそうだが、それだけかもれしれない。日本人は本当はキリストや悪魔だったのかもしれないが私たちは彼の姿を’映画’の視点のみからしか観測していない。いくらキリスト教モチーフがあるといってもそれは単に私たちのメタ的な意味付けであり全く無意味なことかもしれない(そもそも日本人の祭壇にヤギの頭がある時点で日本人=キリストと繋げるのは尚早かもしれない)。
結局のところ私たちは映画を観る時、いやこの世界を見る時必ず自らのフィルターを通している。そこには確実に各々の恣意が存在し実際は無意味な意味付けが行われることも多々ある。
この映画が真に語りたいのは「意味付けの空虚さ」なのではないだろうか。いくら考察したところでこの作品に散りばめられた無数のモチーフから真実らしきものに触れることは出来ても、真実αに辿り着くことは不可能なのだ。
◇まず、疑え。そして信じろ。
コクソンが優れているのは作品で語られる信じることと解釈が観客の事後的な考察により補強される点だろう。私のように、観客がコクソンを解釈しモチーフの意味を見出し監督の宗教的バッグボーンから真実らしきものを探ることで新たな意味が生まれ、上映後も無数に真実らしきものが順次生産されていく。そのどれもが正解であり不正解なのだ(勿論このブログも)。
色眼鏡を掛けるとどうなるか。その色の物が認識し難くなる。大事なことは色眼鏡を掛けていると見えない存在があることを自覚することだ。世界をある色眼鏡で解釈することは、見落としを認められれば悪いことではないしむしろ楽なことである。
ナ・ホンジュン監督はそんなメッセージを送ったのだと私は’解釈’したのだった。