著者の姿が浮かぶとき | 山本みずき

山本みずき

いつの間にか博士課程に進学しておりました。相変わらず政治学専攻で、戦間期のイギリス政治を中心に研究しています。関心の対象は、政治史、思想史、社会史など。学問から離れると華道と日本酒のことばかり考えています。

最近読書をしていると、包丁で胸をぐさりと一突きされるような痛みと、圧倒的な力をもって言葉が迫ってくるような感覚に襲われることが増えました。


それは決してすべての本にあてはまるわけではなくて、ごく一部のものなのですが、そういう本を読んでいると、会ったことも見たこともない著者を捉えた映像が頭の中で流れてきて、彼らが昼夜机にむかって膨大な史料を読み込み思索をめぐらせる姿が浮かんできます。筆を走らせながら、ある時にはピタリと手を止めて、またある時には綴った言葉を消したりする姿が。


そうして自らの思考を疑いながら、じっくりと温めて、長い時間をかけて完成させた本がいま自分の手元にあると思うと、とても神聖なものに思えてくる。そしてその中に綴られている言葉にどのような思いが意味が込められているのかを想像して読んでいると、一見のテクストだけでは到底読み取り切れないものが込められていることにハッとさせられる。


大学3年生のときにカーの『歴史とは何か』を読んで「事実について研究する前に、まず歴史家について研究する」という助言に触れたときには、何を当たり前のことを言っているんだ、そりゃ書き手のレンズを通して描かれるわけだから同じ題材を扱っても書き手によって出来上がるものが異なるのは当然だし彼らの思想を理解しなければ言葉の真意は理解できないだろう、と思ったけれども(しかも実際に当時そう綴ったメモが手元にある)、その当時はただ言葉の意味を頭で読み取ったにすぎず、その言葉が意味するところの凄みを体感することは全くできていませんでした。


言葉を通じて著者と対話をすること、それはその著者が生きた時代の空気感、時代精神、著者の生い立ちや癖などを知ろうとする試みでもあり、だんだんと著者の姿が輪郭をともなって浮かび上がるとき、とてつもなく心が揺さぶられます。自分の狭い世界から見えていたものががらりと崩れ落ちて、そういう前提を取っ払って相手を知ろうとしたときには著者が自ら手を引いて導いてくれるような不思議な瞬間であると同時に、価値あるものを世に残してくれたことへの感謝の念がこみあげてくるような。


しかしこういう感覚を読者にもたらしてくれる本はいま圧倒的に少ないような気がしますが、それでも純粋な探求心を見せてくれる本はまだまだ出続けています。そういう本をこれからもたくさん読みたいです。



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