はじめに
SNSを見ていると、時々「この人とは一生言葉が通じないな」と恐怖を感じることがあります。
あちら側で勝手に変換された「お気持ち」や「敵意」に向かって、猛然と怒っている人たち。
これって、実は30年も前にあの有名な歌が予言していた「病」なのかもしれません。
「日本人はいませんでした」の何が悪いのか
THE YELLOW MONKEYの『JAM』という曲があります。
ニュースキャスターが「乗客に日本人はいませんでした」と報じるのを、「嬉しそうに言った」と断罪する歌詞。
でも、冷静に考えてみてください。
報道が真っ先に「自分に関係があるかないか」を伝えるのは、大人として当然のリテラシーです。
それを「外国人なら死んでもいいと思っているのか」と飛躍させるのは、単なる「認知の歪み」でしかありません。
「書いてあることを、書いてある通りに受け取る」
そんな当たり前のことができない層が、今、SNSによって可視化されているのだと感じます。
「男は決めつけ、女は論理」という現実
よく「男は決断脳、女は共感脳」なんて言われますが、実社会(特に職場)を見渡すと、現実は真逆ではないでしょうか。
私が出会ってきた「仕事のできる女性たち」は、驚くほど論理的です。
行き違いをなくすために、言葉を尽くし、手順を踏み、着実に理論を積み上げていく。
一方で、一部の男性はどうでしょう。
根拠のない「0か100か」の結論に飛びつくことを「決断」と呼び、緻密な精査を「グズグズしている」「共感を求めている」と誤訳する。
それは「決断」ではありません。ただの「決めつけ」です。
理論の積み重ねは「迷い」ではない
「話がまどろっこしい」「理屈っぽい」
そう言われることがありますが、それは情報の正確性を担保しようとする「誠実さ」の裏返しです。
理論を積み重ねるプロセスを「決めあぐねている」としか捉えられないのは、思考のプロセスを維持する知的な体力が不足している証拠です。
自分の理解を超える知性を、自分以下の「甘え」として処理しようとする。その浅はかさこそが、対話不能な分断を生んでいます。
終わりに
「何かを肯定したら、それ以外を否定したことになる」という極端な二元論。
そんな「中二病」的な感性に振り回されるのは、もう終わりにしませんか。
感情の殴り合いではなく、論理という共通言語で話ができること。
「書いてあることを、書いてある通りに受け取る」こと。
それこそが、私たちが「大人」として、この言葉の通じない社会で生き抜くための唯一の武器だと思うのです。