年間で累計すると1ヶ月か2ヶ月ばかりは温泉旅行をしているようである。

などと記すと、午後をアールグレイと共に過ごす無生産有閑階級の戯言のように聞こえるけれど、私の日常は優雅さとは無縁であるし、もとより実際の私は定まりなくて、浮き草暮らしで、半野良的で、波間に漂うクラゲのようで、ついでに言えばハニートラップにとことん弱く、ハニートリップには積極的に参加し、騙され上手である上に、そしてやはりどこか抜けている、つまるところ私にとって旅と言うのは日常の生活循環の延長でしかない。非日常に身を浸しに行くのではなく、日常世界を更に色濃く鮮明にしたものを旅と言うのだ。
不確かな今日を生きるよりも、累々と連なる確かな今日明日を生きる方が、人の営みとして余程上等であるだろう、Mediocrity is goldと言う、月並みこそ黄金なのである。

 関西にも温泉はある。温泉はあるけれど、温泉については一家言あり、しかも落語の小言幸兵衛さんのような私の物差しでこれを語ると、残念な事に数の上で関西は良い温泉に恵まれているとは言い難い。よく知られるように、温泉は火山帯に付随するものであるから、関西の温泉の散在具合も基本的にはこれに倣ったものと考えて良いと思う。
紀州にはかなり質の良い温泉が湧出するけれど、これは火山熱ではなく、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの摩擦が熱源であると言う、ここまで来ると話のスケールが大き過ぎて何やら目眩く思いがする。
所詮、小心者の私などは温泉を地球活動の副産物と考えるよりは、なんかよぉわからんけど自然のお風呂、と定義づけておいた方が無難なようである。

 良い温泉も、そうでない温泉も、全ての基準となりうるものは、その湧出量である。湧出量が際立っていれば、例えば草津の湯畑のような荘厳で野放図な光景が現出するのだ。あれはもちろん温泉湧出のデモンストレーションでもディスプレイでもなく、高温の湯を冷まし、かつ副産物たる湯の花を採取する実利的な目的がある。ただし、草津や別府などの温泉湧出量は別格と言え、全国に数多ある温泉街、温泉場のほとんどが、その湧出量に命運を委ねていると言って良い。なにせ、温泉の湧出とは自然の様々な偶然が重なり合っているから、その構成要素の一つでも欠けると、湧出量が減るか悪くすると温泉そのものが止まる事すらある。
豊富な湧出量を見込んで大規模な温泉街が形成されたものの、徐々に温泉湧出が減じ、温泉街の規模と、或いは受け入れられる宿泊客とのキャパシティとの均衡が狂い、いわゆる掛け流しの維持が困難となり、湯の二次使用、三次使用、四次使用、無限使用の止むなきに至る場合の総称を循環式温泉と言う。

 事の始まりが、悪意に基づくものではないのだから、循環式であることが即ち非難に当たらないのは当然であるけれど、これを気分や好みであるとか、個人的なこだわりに置き換えると、なかなか難しい問題を孕んでいる。
湯の循環使用に伴う衛生面であるとか、不純物の除去と言ったものは、塩素を加えたり、濾過装置に通す事で一応解決できはするのだが、見落としがちなのは人の皮脂などの水溶性不純物とでも言うべきものである。
今、私はたいへん野暮な事を記している。これまで温泉を温泉として楽しんで来た方々に知識の押し売りをしている。確かに有益な知識であると信じるけれど、温泉と言うものをこだわりなく受け入れ、癒しとして来た人々に要らざるものを押し付けている。
これよりのちは、温泉と言うものに真っ直ぐな心持ちで、その文字の通り「あたたかないずみ」として受け入れて来た方々は割愛して頂きたい。
世の中には要らざる知恵と言うものも存在するのである。

 尾籠な話になる。水溶物が溶ける量は基本的に水温の高さと比例する。人の皮脂も同じで、水よりは湯である方がより溶け込みやすいのは自明で、湯舟にも相当量の皮脂や汗が溶け込んでいるのだが、掛け流し温泉であれぱ次から次にそうした古い湯が排出される為に全体としては、気にするほどの濃度とはならない。が、循環式になると排出された湯が再利用、再再利用される為に、皮脂濃度が加速度的に高くなるのだ。
ときおりテレビなどで、温泉をレポートするお姉さんが、トロリとした肌触りのお湯です、などと言っているのを耳にすると、私などは大変に複雑な思いをする。
お姉さん、そんなとこ今すぐ出て、僕のおウチのお風呂においでよ、と、声をかけたくなる。
ウチのお風呂は水道水のお湯だけれど、その種の温泉よりは余程良いよ、と言いたくなるのだ。

 そうした私の物差しで温泉を吟味し、さらに良い旅館を選ぶとなれば、これは自ずと数は限られ、私の場合は行く温泉それぞれにたいてい定宿が決まっているから、世上どれほど評価が高い宿であっても、あまり食指が動く事はない。大規模な温泉街、鄙びた温泉町、一軒きりの湯治旅館まで、良い湯と良い宿を求めて旅をするのは、それはそれで悪くないものだ。
最近になって困っている事は、コロナ騒動からこっち、行きつけた老舗の温泉旅館が店じまいして、何とかリゾートとか言う、高級に届かない高級感を売りにしているリゾートチェーン店に城を明け渡し、看板も、サービス内容も、料理も、部屋の設えも、新興成金が好みそうなものに変わって、さらに宿泊料金はこれまでの1.5倍強となり、これは高いものは良いもの、と条件反射のように考える人々には重宝されるのだろうけど、私のような、値段が高くても好まないもの、がある捻くれ層は随分と肩身が狭い事になっている。

 思えば、そう、修善寺のあさばや柳生の庄は無事にその勇姿を留めているやろか。
わけわからん下郎に城を明け渡していないやろか。
財布の具合があって、それぞれ長いことお世話になっていないけれど、昔、家族旅行で泊まった、14歳の眼にあさばの薪能は美しかったし、それと時期を同じくして宿泊した柳生の庄は朝食の味噌汁を目の前の囲炉裏で作ってくれたのが印象的だった。
そういえば、朝食を食べたあと、部屋付きの風呂とは別の浴場に行くと、湯舟の湯けむりの向こう側にテレビで見慣れた桃太郎侍がいる、或いは遠山金四郎とでも言うべきか、そう高橋英樹さんである。
粗相がないよう、緊張しつつ同じ湯舟に浸かると、桃太郎は
「君はどこから来たの?」
と、江戸弁ではなく山の手のアクセントで仰る
「き、京都からきました…」
「そう、おじさんも京都に仕事でよく行くんだよ」
「し、知ってます、撮影所、何度か行ったことあります会館も行きました、もちろんテレビも見てます」
「そうかぁ、ありがとう、じゃ、ゆっくりしてね」
そう言いながら高橋さんは湯舟を上がる、鷹揚に揺れる背中に桜吹雪はなかった。

 こうした方々のこうしたプライベートは極力このブログには載せないようにしている。
が、なにせ40年も前の事であるから、もう時効であろうと思う。
テレビではなかなかの荒くれ者である金四郎は物腰の柔らかい大変な紳士で、この時おそらくはご家族でいらしていたと思う。その当時、赤ん坊のマーサ嬢がいらしたかどうかは定かではない。
分かっているのは、幼いマーサ嬢はママとなり、私は自儘な暮らしをしている、こうした接点の誤謬と言うべきものが起こるのも、人生の妙と言うべきであろう。

 桜吹雪で思い当たるのは、旅館の浴場に深夜赴くと、時々彫り物を入れた人に出くわす事がある。深夜の静けさも、アートとしての彫り物も、私は嫌いではないから、夜半の浴場は私の好物が出揃う場でもあるのだ。
もちろん旅館なり、共同浴場なりの建前は彫り物を入れた人の入場を禁じてはいるけれど、まさか到着した宿泊客に、諸肌脱ぎになって下さい、などと検分できよう筈はなく、実際運用的に浴場使用は本人の意思に任されている。
それであっても、宿泊客が少ない深夜に入浴しようと言うのは、それはそれである種の気遣いと面倒を回避しようと言う態度が垣間見える。
故に私個人としてはいちいち騒ぎ立てる程の事でもないし、その人が彫り物を威嚇の道具として用いようという意図も皆無だと知れば、これを敢えて旅館の従業員に知らせたりはしない。
そんな人とは湯舟でたいてい会話を交わすし、逗留が数日に及び、ある程度の顔なじみとなった時は互いの背中を流し合わないでもない、素っ裸の男が二人いる、世間的なものを背負って風呂に入るのではない、むしろ世間的なものを脱ぎ捨てているのである。それだけの事である。
彫り物の仔細やら、どこかのクラブチームに所属しているか、などと野暮な会話は一切しない、宿に着いて疲れて寝てしまった事、翌日は子供が喜ぶからと遊園地に行く事、女房の尻に敷かれている事、一糸纏わぬ彼らは、そのへんのおっさんと何ら変わらない、嬉しければ喜び、悲しければ泣く、今どき良からぬクラブチームに入っているなら早々に抜けるべきだと思うし、賢い生き方だとも思わないけれど、こと、無頼という点では彼らも私も同根ではないかと、そんな風に思ったりする。

 彫り物は年月を経ると退色していくし、特に和彫り特有のボカシの部分は長い年月維持するのが難しい、昔、子供時分に鯉金の彫り物を入れた年寄りがいて、夏になると薄着も手伝ってよくその彫り物を見せてくれた。
なんせ当時で70歳も過ぎているから皮膚はたるんでいるし、肝心の彫り物も退色して場所によってはスジ彫り、いわゆるアウトラインを残しただけになっている。色の抜けたところに、絵の具で塗り絵をしたらさぞ楽しかろうとじいちゃんに頼むのだけれど、じいちゃんは
「くすぐったいからやめてぇな」
と言うばかりであった。じつに楽しいじいちゃんであった。


念の為に言っておくが

私には一切彫り物の類はない

生っ白い貧相な背中があるのみで
かすかに数本の引っかき傷の痕があるだけである
そして14歳の日に見た、遠山金四郎の背中は大変に綺麗であった
無頼の荒くれ者は、裸になったとき
その心底が露わになるのかも知れない

本日の講義


おしまい


南無