檳榔な話で恐縮なのだけれど、今朝ほどから腹痛を覚え、幾度となく厠へ赴いている。厠は俗に「一人の戦場」と称されるが、本来的な下部構造との戦いとは別に自らの知性を巡らせ、仮想の自分と意見を戦わせる場でもある。人は厠でこそ真の哲学者となり得るのだ。


とまれ、腹痛の強弱の波は、まるで悪心を持つ者が巧みに操作しているのではないかと思えるほどに私から快活さを奪ってゆく、メゾピアノから始まりクレッシェンドを経てフォルテに至り、テンポはアダージョからアレグロまでアッチェレランドで進み、痛み全体のイメージとしてはペザンテと言って良い。ときおり、前触れのない無痛が訪れて私を根拠のない安堵の楽園にいざなうのだけど、そんなときに限り悪心の主は次の瞬間にフォルテッシモを奏で私を苛むのだ、砂漠を流浪する渇いた者に緑と実りと潤いに満ちたオアシスの蜃気楼を見せるが如きやり口は言語道断であるが、いかんせん悪心の見えざる手は私の中に巣食っている、頼るべきは神仏とビオフェルミンなのだ。私はビオフェルミン錠を指につまみ神仏に祈る
「神さま、仏さま、今度こそカタシは良い子になります。近所のしげるじじぃが昼寝してる時に濡れタオルを顔に乗せたりしません、お賽銭も奮発しますし、次の御供物にはジャン=ポール・エヴァンのボンボンショコラを捧げます。ですからどうかこの腹痛から僕を遠ざけて下さい……」
人生の最初期には神童・仏の眷族、次に悪童、更に長じてはろくでなし、と呼ばれた逆出世魚の私であるが、神仏も幼少の私に免じて必ずや神験を授けてくれよう。何と言っても私と神仏とは昔馴染みなのだから。

もとより、神仏に関するあれこれを口にするのは憚られる事であるし、日常会話としても宗教にまつわるものは避けるべき性質のものである。分かった上で、知った上で、賢く騙されたふりができる人を粋人と言うけれど、分かっている事をしたり顔で口にすれば、それは野暮でしかない。噓を知りながら黙って騙されたふりが出来る人は粋である一方で噓の虚を殊更に吹聴して回る人は不粋そのものである。色恋、艶事を手練れの伶人のように扱える人がいるけれど、これ悉くは相手の嘘をどう扱っているかに他ならない
「おんなから隠し事を取ったら何が残るの?」
とは、峰不二子嬢の名言だけれど、分かっていながら隠し事を黙って受け入れられる人は粋人、隠し事を追求する人は不粋と言うべきであろう。夜の街、お座敷、嘘が飛び交う場に粋な人が多いのはこうした理由による。

宗教の世界では組織の運営上、布教活動上に支障がある不都合な真実を「冒涜」と言う。要するにわざわざ口にしなくても良いのに口にする野暮と言う意味である。宗教の世界であっても、分かった上で黙って敬虔な姿を見せられる人を粋人と言い、いちいち賢しらに口を開く人を野暮と言う事に変わりはない。そもそも信じるだけで宗教との関係が保てるならばそれに越した事はないのだし、それに対して余人が口を挟むべきではない。知ったからと言って相手の信仰を尊重できないのは相当な野暮と言うべきである。加えて私がこのような事を書き記しているのも野暮である事に変わりはない、従ってこれを読んだ皆様には黙って笑って向後を過ごして頂きたい、社会通念上看過できる余人の信仰に口を挟む事なく、祈りを尊重し、かつ自らに於いてもそれまでと変わらぬ神仏との関係を築いて頂きたい、長い長い間、人々に受け継がれて来た祈りには敬意を示すべきであるし、それをしたり顔で揶揄するのは今日の私のように粋ではないのだ。

私は新約聖書、クルアーン、法華経などの愛読者で、読めば読むほどにそれぞれは違い、また同じであると言う境地に至るのだけれど、この宗教界の三大老舗をはじめとして星の数ほどある宗教はこれ悉く、悪いことはしたらあかんよ。良いことをしなさい、で言い尽くす事が出来ようかと思う。途中から悪夢に変わっていった教団であっても始まりは全てそこに帰結する。それは人にとって普遍的な善悪から、教団が考える善悪へと変質するからで、しまいには私たちが考える善悪のみが正しい、とまで言い切ってしまう。こうなると人は神の名のもとに人を殺め、奪い、蹂躙し、それでいて良心の呵責に苛まれる事はない。釈迦は教団なんか作ったらあかんよ、と言うたのに人は教団作るし、キリストは私の言葉を残したらあかんよ、言うたのに人は教典を作りよる、しまいに神や仏を出汁にして殺し合いを始めるし、神さまもお釈迦さまでも知らぬ仏のお富さんとはこの事を言うのだ。

そう、仏さまも神さまも預言者も、後世の人々の事は分からなかった。人に備わった根源的な善悪や愛の事は分かっていたけれど、人々のこれからは分からなかった。何があっても、どんな事があっても殺すな、とさえ言ってくれたなら、こんにちのような
出来事は起こらなかったかも知れない、或いは言ったのだけれど、後世の人間がそれを捻じ曲げて解釈する事を仏さまも神さまも預言者も分からなかった。全知全能であるけれど分からなかった。そもそも紛争の解決手段としての戦いが是認された時代に成立した宗教は、戦う事を禁じはしない、宗祖が迫害された宗教は先鋭化するのが常だし、つまるところ、文化、価値観、社会性、文物、ありとあらゆる宗教は成立年代の時代性から抜け出ていないのだ。
随分と神さまも詰めが甘い。女性たちがブルカを被っても被らなくても、今どき男どもを惑わせるものは世に満ちている。あんまりスマホでエッチな動画を見たらあかんよ、とはクルアーンに書いてない。「惑わせるもの」としてスマホのエッチ動画を禁じる事はできても、スマホの登場を預言したものではない。現代的な文物の登場は聖書にも仏典にもない。原理主義と言うものが、恐ろしく時代錯誤的になるのはこれが為である。あらゆる経典は同時代的なものから超越していない。教団が存在するのは時代に合わせて教義を解釈し、版図を拡大する為と言って過言ではなかろう。

と、悪態をついた私ですら赦される。神仏とは本来的にそうしたものだ。悪態つくと天国に行けないとは、教団の脅し文句であって、神仏はそれでも赦してくださる。だって神なんだもん。その時が来て神を前に反省し、悔い改める者を救さずして神を名乗ってはいけない。仕方ないやっちゃな、苦笑いして神仏は赦す。赦すから神仏なのである。少なくとも私と宗教とのスタンスはこのようなものだ。そして私の個人的な解釈と感覚では、神仏とは常に人の中にある。人が人の幸せを願うとき、病める人の快癒を祈るとき、不幸にして袂を分かった人の多幸を思うとき、カタシに檀れいちゃん似のガールフレンドが見つかりますように、なんなら私がガールフレンドになってあげましょ。と申し出て下さるとき、その心の有り様は神仏そのものである。人はそのままで神仏になれる、何も遠い場所から見守るばかりが神仏ではない、人の心の奥底に良心と共に同居するものを神仏と言う。経典とはそうした良心を大きく揺らめかせる燃料のようなものである。

今日の私は必要に迫られて散々悪態をついた。大変不粋であるし野暮である。お気に障った方、どうか赦して頂きたい。あなたの祈りを揶揄する気持ちは微塵もない、信じる者の中にそれは存在する、間違いなく存在するのだ。全ては私の手垢が付き過ぎた知識による清らかなものへの僻みと妬みであると思って頂きたい。



そうこうする間にまた私になかなかの腹痛が。
だいたいメゾフォルテくらいである。
口の悪い方は、神仏に散々悪態をついたバチだと言うだろう。それは違う、違うと思う、たぶん違うだろう…
私はこのブログを通じて水晶玉やら、わけわからん絵画など売りさばいていない
バチが当たる人とは本来そうした人である…



頼りのビオフェルミン錠は即効性に乏しいのが難であるな…


厠の講義おわり


南無