不合理と退廃と無駄をこよなく愛する私は、当節の風潮からは誠に無用人であり、役立たずであり、無能人である。むのうにん、とは、時流に抗いやがて滅ぶ者への侮蔑を含む敬称のようなものであって、それが故にときおり文化庁へ私自身を絶滅危惧種として保護申請したくもなるけれど、それをすれば珍奇なる見世物として堅気の皆様にお目にかかる事をもあるやも知れぬ。蔑みであろうと、ある種の羨望であろうと、人の心の襞に何かしらを刻むのは無用人として不本意であるから、私は今日も市井の街角で静かな役立たずとしての渡世を送るのである。

 役立たずに金はないけれど、暇だけはたっぷりあるものだ。従ってこの暇を如何に愉しみ消化するかと言う一事に私の情熱は傾注されるのだけれど、何に愉しみを見出すか、私くらいの役立たず貴族になるとなかなか堂に入ったものとなるのだ。朝、起きる。堅気の皆様はとっくに通勤電車に揺られている時間帯である。少々の後ろめたさと、不甲斐なさを感じつつ、やおら朝食の準備に取り掛かる。この時期のあさりはまことに美味しい。ふっくらとした身は弾力があって噛むほどに濃い旨味が口中に広がる。貧寒の食の間に春の彩りが添えられ、粗餐は忽ち豪奢な饗膳と化すのである。春に限らず旬のものには、そんな力が宿っている。

 このあさり、魚屋の主人によれば愛知県産であると言う。と、するならば三河湾でとれたものであろうか。三河湾と言えば、遥かな昔にウツミなる地へ海水浴へ行った事がある。コーヒー牛乳色をした波打ち際、脚に絡まるビニール袋、熟れた磯の香り、沖合はエメラルドグレーが広がっていて、リゾート的ではなかったけれど、物成りが豊かな海とは本来こうしたものかも知れない、とニキビ面の私はぼんやり思った。今現在もあの日のような光景であるのかどうか私の知る処ではないけれど、兎も角も、このあさりははるばる三河湾から都にやってきたのだ。ここは王道たる味噌汁であさりちゃんのフィナーレを飾ってやりたい。

 ただし、窮乏の役立たず貴族たる私が、朝食の一品にたかだかあさりの味噌汁としたのでは世上に聞こえが悪いから、やや誇張を加えて今回のメニュー名は「蟹の味噌汁あさり添え」とフレンチ風の呼称としておく。あさりは水道水で洗う、ザルの中で流水に晒し、両手に取って手のひらを合わせ貝殻同士を優しく擦りつけるようにして、拝むようにして、よく洗う、この時、ごめんねあさりちゃん、ありがとうあさりちゃん、と心で呟くのは命に対する儀礼である。ものを言わぬからと、動物のように鳴いたりしないからと、一個の命に対して敬意と感謝を欠くような事はあってはならない、貝であれ、虫であれ、植物であれ、命に上下があるでなし、お茶っ葉に、ハチミツに、その生産の中間過程で死んでいった虫たちに、全てのものに感謝しながら人は今日を生きねばならない。動物の屠殺現場が凄惨で残酷であるから動物についてのみ良心が咎める、などとイベント性の大小を問題視している場合ではない。人は他から命を奪わず1日たりとも生きる事はできない、もの言わぬ者たちへの想像力と配慮を欠いた感傷は、滑稽な偽善にしか成り得ないのだ。

 蟹の味噌汁あさり添えは着々と進む。鍋に水をはり、そこへ慈しむようにあさりを投入し火にかける。水は湧き水、よく磨かれた軟水である。魚屋の主人は
「水と一緒に酒を入れるとヨロシノコトヨ」
と言ったけれど、ここは水と私の場合はほんの少しばかりの鰹節を入れるのだ。料亭あたりだと昆布を入れる事が多いようだが、あさりの旨味の主成分はコハク酸とグルタミン酸であるから、鰹節のイノシシ酸を入れる事で、より旨味を引き出す事ができる、と、農学部出身の元ガールフレンドが言っておったから、私はずっとその方法を踏襲している。料亭の板元より、クックパッドより、私は元ガールフレンドを信じる。未練とはそうしたものなのだ。少し煮立ったらアクと少量の鰹節を取り除き、火を止め、しかるのち味噌を入れるのだけれど、あさりから塩分が染み出しているのを勘案し、ここは塩味が強い味噌より、麹の風味が勝ったやや甘口の米味噌を選びたい、味噌を溶く量も心持ち少なめにするのがコツであろう。味噌風味の出汁を飲むくらいの気分で丁度良いと思う。味噌を溶かし、あさつきを適宜散らせば出来上がりなのだけれど、ここで大切なのは貝の一個一個を確認する事だ。開いた貝殻の奥にときおり小さな蟹さんが潜んでいる事がある。彼の名をオオシロピンノと言う、ピン子ではない、ピン子ではうるさくて仕方ない。生物学で習った片利共生と相利共生では片利共生に当たる、つまり勝手にあさりに棲みついて、一方的にあさりの栄養を頂く。オスは住まいのあさりを離れてあちこち歩き回るらしいが、メスはほぼ一生をあさりの中で送る。ピン子の一生はあの狭い貝殻の中にあるのだ。

 鍋のあさりを仔細に確かめてみると、果たして蟹ちゃんはいた。一個のあさりだけではあったが、甲羅をやや紅く染め、ズワイやタラバみたいな派手さには欠けるけれど、可愛らしいその姿を味噌の波間に晒している。おたまで彼の棲まうあさりをすくい取り、汁椀に移したなら「蟹の味噌汁あさり添え」の完成と相成る。朝からなんと言う豪奢、絢爛。退廃と斜陽のブルジョワジー、ここに有り、である。汁椀の中で浮きつ沈みつする「あさり付き蟹」、同時進行で調理しておいた鰆の味噌焼、菜花のおひたし、二軒隣のしげる宅より簒奪した香の物、及び、富山産米 富富富 更に柳桜園のほうじ茶香悦、無論、おかずとご飯の受給バランスが崩れた時を見越して傍らにはのりたまが置いてある。幼い日にはご飯の最初の一杯にはふりかけ禁止の鉄のルールがあったけれど、私はいま自由を謳歌している。たとえ最初からのりたまに手を伸ばそうとも、私を咎め立てする者はいないのだ。そう誰もいない。太宰治風に、選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり、と言うべきか、窮乏の貴族は悩ましい。なるほど、人生は佳いところ取りは出来ないようになっているのだ。 

  少し冷めた蟹の味噌汁あさり添えを食べながら、ぼんやりするうち、時はすでに10時を過ぎている。
役立たずの閑人にはこれくらいが丁度良いのだ。




おわり