見えるものが全てではない。いま眼前に広がる様々なものは見過ごしてきたものの、或いは敢えて見ようとしなかったものの残影とも言える。人はいつもひときわ美しいものを見落とし、見過ごしている。この場でしかと眼を凝らしたならば、それまで気付く事のなかった可憐の欠片を拾い集める事ができるかも知れない。

 昨今は桜も紅葉もライトアップたけなわで、今春も夜間煌々とした灯りの中心で桜が気恥ずかしそうにその光を受け止めている。各方向からの一斉照射だから影も分散し淡くなり、自然状態ではあり得ない情景を作り出している。それはたしかに美しい、美しいけれど、これは演出された美であって、より自然美に軸足を置くならば、こうした人の演出は手垢にしかならない。もはや無垢ではないし擦れた美と言えなくもない。司馬遼太郎さんの言葉を借りるならば「芸術的計略性」と言うやつである。要するに、あざといのだ。ただし人にはそれぞれあざとさに対する許容範囲があるから、これを至上の美とするならばそれも良かろうと思う。

 目を転じれば、花見の宴の累々が広がっている。憎まれ口ついでに言えば、あのブルーシートは良くない、美しさに欠けるのはもちろん、桜の樹の為に良くない。桜の根は土中を浅く広く張ってゆく、そこにブルーシートなどを敷かれては根が酸欠に陥るのだ。桜の事を思うならば、ここはブルーシートではなくゴザかムシロを使用して頂きたい。もの言わぬ桜の代弁者としてカタシが謹んでお願いする。私の寓居より遠からぬ場所にも今年は花見の宴が数多く催されているのだが、その悉くがブルーシート、アルミシートを用いており、カタシはその狂態を目撃する度に憤慨しているのだ。かの植藤十六代佐野藤右衛門翁、いま若かりせば雷鳴の如き大喝と共に、花見の名のもと桜を苛む悪しき酔漢どもを桜の園より駆逐するに相違あるまい。が、やんぬるかな、翁は当年とって齢九十六、ここは藤右衛門翁の気概だけでも受け継ぐべく、憚りながらこの私がこの任に当たらねばならぬ所であるのだが、生まれついてよりこんにちに至るまで優男としての春秋があるのみの私には翁の侠気と勇武と腕力と助平はとても及ぶところではない。従って、十分に身の安全を確保された路上から宴の場に向かい
「ブ、ブルーシートは桜を痛めるから、や、やめて下さいねぇ〜」
などとわめき、しかるのち、最近私が有徳人より貸与されておる独逸車 6SP MTで素早くその場を離脱するのである。迅速な追手の動向を鑑みるに、この時のクラッチミートが勝敗を分ける境目であるのは言うまでもない。エンストは死を意味するのだ。

 シレジウスは
薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべくして咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも気にしない。

と言った。桜も同じである。春が来た、桜が咲いた、咲くべくして咲いた。それだけである。だが、摂理に美を見出すのは人の人たる所以である。人の人たらしめる心の有り様が桜や薔薇を美しく見ているのである。そして私にとって春は少し悲しい。かつて私が愛し、また愛してくれた人は春の桜の前に逝ってしまった。その時から、私の花見は語らいである。その人が見ることのなかった桜をもう35年ほど見続けている。言わば代観とでも言うべき花見であるし、日々馬鹿を繰り返している私の懺悔と報告会でもある。人は少なければ少ない方が良い。早暁の薄明りか、また薄暮の途切れ途切れの明かりの元か、或いはまた星月夜の元か、密やかで悲しい花見を私はあちこちでしている。名木と言われる桜は素晴らしい。ある夜、名桜に会いにゆく道すがらの事だ。ふと眼を凝らすと名も無いただの桜がひっそりと人家の庭に植わっている。そぞろ歩きの人々はその桜を一顧だにしない、まるで引力に導かれるように名木の元へと急ぐ。私は立ち止まり、その桜の仔細を眺めてみる。人家から漏れ出た白熱球の灯りがぼんやりと白妙の花弁を橙に彩り、風のそよぎに呼応して枝を穏やかに揺らしている。ときおり、花弁がはらりと落ちて行くけれど桜は風を恨みはしない。人の住まいがあり、自然の摂理がある。その一連の美しい無言劇に計略性はない、美しく見せようと仕組まれたものではないのだ。人は目的に惹かれるあまり、道すがらに散りばめられた可憐を見逃す事がある。無垢の美しさとは、何でもないところに落ちているものなのだ。 


 カタシ散人 記