食べ物の恨みである。もとい、戻らない過去への妄執である。前回から引き続き、チェルシーちゃんを探す旅の途中、スーパーマーケット砂漠を渡るベドウィンの友から、ただならぬ事を耳にしたのだ。曰く
「チェルシーな、アマゾンとか楽天とかオークションやフリマでもめちゃくちゃな値段で売られているらしいで」
「ぬゎにっ…して末端価格でいくら付けておるのや」
「いやぁアソート袋で2,800円くらいで、箱やと2,000円くらいやな」
忽ち憤怒の形相と化す私。平時は柔和かつ穏やかに洛中の安寧と人々の幸せを期す仏様と呼ばれる私ではあるが、かような無体を聞いては捨てて置かれじ。ふつふつと湧き上がる怒りの焔、密教で大日如来は奴僕の姿たる不動明王に身をやつし、教令輪身、つまりは憤怒の姿を以て外道どもを正しかるべき道に戻すのである。また、神仏の化身たる私が怒れば衆生に災禍が及ぶと言われておる。遡る前回はゴジラが東京に上陸し、前々回は大塩平八郎が乱を起こした。ただ大塩の如きは義憤にかられての行いであり、災禍と呼ぶべき性質のものではないが、もし今生に大塩あらば外道下郎どもの転売品をひとところに集め火炎放射器で一斉に焼き尽くした事であろう。じつに大塩はパッショネイトな烈士である。
 
 正義は悪行の母と言う。転売下郎にも正義があるのだ。「価格は需要と供給のバランスで決まる、市場から消えたものにプレミアが付くのは当たり前であるし、何より買い手が納得した上でその価格で買うのだ。誰に文句を言われる筋合いはない。」

それを自らの正義の拠り所とし、今現在をして定価で贖えるものに対し10倍以上もの利鞘を乗せるのである。やり口は商品在庫があるにも関わらず、意図的に市場への流通を抑え、価格を釣り上げた上で一気呵成に売りにかかる悪徳あきんどと同じである。本来渡るべき人に商品は行き届かず、適正価格を蹂躙し、自らの私腹を肥やすのである。これが悪行でなくて何であろうや。逆から申せば、悪行を為すためには正義や大義名分が必要なのである。全ての悪行には正義がついて回る、宗教戦争が凄惨な事になるのはこれが為である。君らは正義を行っていると、より大きな存在から保証されれば人は簡単に悪魔となるのだ。

 私はチェルシーの甘酸っぱさと共に暫しの過去へいくら戻りたくとも、転売下郎から贖うつもりはないし、これまでもマクドのハッピーセット・はらぺこアオムシを始め、その時点で店で買えるものは全て小売店が指定する値段か定価で贖ってきた。目当てのおもちゃを得る為に増やした体重は1キロ、思えばあの頃は1日のうち2食をハッピーセットで済ませたものだ。フリマサイトにはハッピーセットの倍の値段を付けたはらぺこアオムシ水鉄砲が並ぶ、か、私は誘惑に負けなかった。それは私が大塩平八郎と並ぶ烈士であるからに他ならない、我が身を犠牲にし、私はついにはらぺこアオムシ水鉄砲を手に入れたのだ。費やした金額はフリマサイトの転売品を越えたが、下郎の私腹を肥やさずには済んだ。私の浄財がマクドのお姉さんの人件費になったと思えば心は晴れやかである。

 悪徳あきんどの以前から今に至るまで、いつの時代も金に卑しい下郎は存在し続けているけれど、此処に来て、一般人の金に対する感覚、及び倫理観・道徳感が劇的に変化したように思う。ひと昔前ならば、そのような儲け方は、恥ずかしい、卑しい、えげつない、とされた事を一般人はもちろん、若い人が何の躊躇いもなく行うようになった。どのような儲け方であれ、10,000円は10,000円、それ以上でもそれ以下でもない。とでも言いたげである。情緒より怜悧、名より実を取る姿勢は従来の日本人とは質を異にし、むしろ欧米人に近い、ビジネス現場の怜悧は理に適っているし、怜悧である事を以てビジネスは大成するとも言える。ただし、そうした手法が日本的な情緒感に合致するかどうかはまた別問題である。

 私は情緒のビジネスを提示したい。この場合のサンプルは明治製菓である。チェルシーの売り上げ低迷により終売、これは致し方ない、むしろここまでよく頑張って頂いたとも思える。終売がどのタイミングで、社内のどこのレヴェルで意思決定されたのかは分からないけれど、3月4日発表、月内終売、はあまりにも拙速に過ぎる。結果、欲しい人々、欲しかった人々に商品が行き渡らない醜態を晒している。企業のイメージとして好ましくないし、何より長年売られた定番商品に対する消費者の想いを無視、軽視した決定である。お菓子は明治製菓さんにとって集金媒体ではないのだ、なるほどお菓子は売るに相違ない、それだけではないのだ、明治製菓さんはお菓子が紡ぐ豊かな時間をも作っているのだ。母と子、祖父母と孫、友達どうし、恋人たち、年月を経た夫婦、あらゆる人たちがお菓子から得られる豊かな時間をも創出しているのだ。自ら作る製品の向こう側にいる人々の豊かな時間、これに強烈な自負と誇りがなくて何の為の製菓企業なのだ。消費者の嗜好変化による終売、それは良い。ならば、せめて半年前に予告してくれたなら、このような事態を招かず、過去の思い出に浸れる人々は多かったのではないか、加えてそれは終売特需になり得るのだ。売り上げ低迷であるから即終売は怜悧として正しいけれど、情緒としては間違いである。情緒がさらなる利益を生む事もあり、この場合の利益とは次なる新商品を通じた豊かな時間を創出する為の原資となりうるのだ。私ならチェルシー終売キャンペーンをする。長年の定番商品とはそうしたものである。売り上げと消費者嗜好の数字やグラフ、いま流行りの可視化は結構毛だらけだけれど、冷たい数字が語るその先の消費者を想像できないとは本末転倒も甚だしい。明治製菓ほどであれば高学歴の皆様が揃っているだろう、ただ高学歴が想像力の豊かさを担保しているわけではない。怜悧さとクリエイティブな才能を合わせ持った人を賢い経営者と言うのだ。

 大塩平八郎は陽明学の徒であった。陽明学では知行合一を重んじる。知識知見を行動として発揮できないのであれば、知識知見などないものに等しい。若い人は怜悧さと情緒を磨け、そして行動するのだ。阿呆な転売などに手を染めるな。あんなものは擦れっ枯らしの出し殻のような人間がする事だ。自らの仕事に自負と誇りを持ち、多くの人々の豊かさが見える金を手にせよ。

 私のサスペンス仲間のしげるじじぃ(88♂)も実は50年来のチェルシーファンである。うまい事に良家の才媛を引っ掛けた時も、3人の子を成して素敵な家族を得た時も、ちょっとおイタをして細君に怒られたあの夜も、ロシアンパブにはまり年甲斐もなくナターシャ(29)に入れ上げている今も、いつも傍らにはチェルシーがあった。
「カタシちゃん、チェルシーまだ見つからへんのか」
日々、しげるが催促するものの探索の結果は虚しい。そこで私は一計を案じた、しげるは歳が歳であるから一つでも多く冥土の土産を持たせてやらねばならない。この大義・正義を前に全ての事は正当化されねばならない。悪行ではないのだ…
急ぎ、スーパーへ走った私はしげるの元に踵(きびす)を返す
「しげるちゃんチェルシーあったで、ちょっと形変わってな、味も若干ちゃうらしいねん」
「ほんまか、カタシちゃん、えらいおおきになぁ」
「しげるちゃん、食べてみ、新しいチェルシーは袋やねん、めっちゃうまいで」
しげるはやおら袋の中の個包装の一粒を口中に投じる。みるみる笑顔になるしげる
「これやがな、カタシちゃん、ありがとうなぁ」
「いやぁ喜んでくれて嬉しいわぁ、ゆっくり舐めて喉につまらせへんようにな」

しげるは最近恍惚の時間帯が増えた。
私が彼に渡したその袋には ヴェルタースオリジナル と書いてあるけれど
それは些末な事なのである。

いひひ

おしまい