飛び職さんのうち、特に女性の客室クルーに対し、かつてはスチュワーデスと呼称していた。現在ではそうしたクルーの総称としてフライトアテンダントなどで統一されているが、なぜか日本国だけはキャビンアテンダントとしている、不可解ではあるけれど、特段構いはしない。分かるのは、昔も今も飛び職は憧れの職業であり続けていると言う事だ。私の若い友人たちにもCA志望は多く、そして実際に飛び職さんとして世界を巡る友人もいる。その彼女らが言うのには、何と言ってもこの仕事は体力勝負。頭脳労働の側面が大きい肉体労働だそうだ。加えてコミュニケーション力、機敏な判断力、英語力、そして綺麗な日本語を話す能力が必須であるらしい。不甲斐ない事には、場に応じた綺麗な日本語はもはや習得言語であるらしい、特に若い世代の社員にこれが欠けている、たとえTOEIC700点レベルであっても、日本の航空会社である以上は美しい日本語は必須である。と、目の前の姉さんは鼻息が荒い。
「おお、それならば…」
と、私は身を乗り出しつつ、言葉を繋ぎ
「僕が日本語の講師をやろうではないか、捨扶持で構わぬゆえ、是非とも会社に掛け合ってはくれまいか」
すると彼女は深く嘆息し、呆れを宿した胡乱な眼差しを私に向け
「あなた、そんな事をしたら大変な事になるでしょう、わたしの立場がないわよ」
物事の本質を見事に捉える彼女は、都会的で断定的で洗練された美しいアクセントと物言いで私をなじる。オープンテラス、昨今の言い方ならばアルフレスコの午後3時、テーブルの中央、乳白色した一輪挿しに赤い薔薇が生けてある。春を帯びた風に髪を梳かれながら、西日に少し顔を傾げて彼女は私に微笑む、ときおり遠い眼をするのは西日のせいだけではあるまい、薔薇の花弁が風に揺れて会話の合間にリズムを刻んでいる。甘やかな早い春の日、当の私はと言えば、春を帯びた風に散りばめられた花粉と言う名の悪魔に鼻を蝕まれ、止めどなく水洟をたらしながら、それがまるで義務であるかのように、彼女を見つめ続けるのだ。彼女は少し悲しい顔をして
「ほら、鼻をかみなさいよ、もう……」
と、ネピア鼻セレブポケットティッシュを私に手渡す。ああ、外装の白いうさぎちゃんが可愛いぜ、春の被害者を慈しむ黒い瞳が私を和ませる。
 
 それから彼女はこの1月に起きてしまった羽田での事故を語る。客室乗務員は本当に素晴らしかった、同じ状況で私が同じようにできるか身につまされた。そして何より素晴らしかったのはお客様だ。ああした場合は一人のパニックが連鎖的に他のお客様へのパニックへと繋がる。いくらCAが呼びかけてもパニックが起こる時は起こってしまうもので、あれはお客様が動揺しながらも終始冷静を保って下さったのが何よりだった、と。航空会社に奉職し、はや12年。彼女は立派なCAに成長したようである。客室乗務員とは接客を主とはするものの、常に乗客の身の安全を期し、乗客の安全を最優先としている。なるほど花形職業だけはあるのだ。

 私には思い出がある。カタシ24歳、分不相応に自腹で背伸びして贖ったロンドンまでのファーストクラス。会社のチケット支給はエコノミーで離任の時はビジネスであったが私は無駄に気負っていたのだ。なめられたらあかん。何に対してか私は息巻いていた。おのぼりさんの私は機内でも緊張と興奮で寝られない、そんな私を見兼ねて恭しく丁寧に対応してくれるスチュワーデスの美しいお姉さん。歳の頃は30を少し出たくらいか。広々としたシートより、美味しい食事より、私はスチュワーデスさんが気になって仕方がなかった。ヒースローに近づく頃、私は意を決して彼女に告げる
「あ、あの…よろしかったらロンドンで食事を共に願えませんか」
彼女はクスッと微笑みながら私の耳元で
「ネクタイがもっと上手く結べるようになったらね」
と軽くあしらった。それが初ファーストクラスの思い出だ。あれから30年が経とうとしている、いま私は現役CAを目の前に洟水をたらしている。ああ物事には全てタイミングと言うものがあるらしい、ふと思い立って彼女に問うてみる。
「あれかね、やはりお客さんから誘われたりする事は多いの?」
「ないわけではないけれど、路線によって随分違うわよ、なぜかそんなお誘いがとっても多い路線があって、正直私は嫌だなぁって…」
「ああ、そうなんや…」
私は何故か深い敗北感に襲われる。私は何を期待していたのか分からない、だが自分の卑屈を振り払うように
「ところで、僕のネクタイ上手く結べてる?」
「なに?唐突に、ええ…とっても上手いけれど…」

 30年の怨讐を越えていま呪いが解かれる。あの時のスチュワーデスさんは今いずこ、それは知る由もないけれど、確かに私は何かから解放されたのだ。

そよぐはるかぜ、一輪挿しの薔薇の花弁がさきほどより幾分大きく揺れている

スーツの内ポケットには彼女に貰った鼻セレブポケットティッシュが忍ばせてある。今夜はこのかわゆいウサギちゃんをおウチに連れて帰ろう。

戦利品としては
悪くない。


いひひ