以前。もう遠くなってしまった日々、好き合った二人が何かをきっかけに再会し互いの情念に仄かな、しかし確かな灯りがともり、やがて遠い日の二人に戻ってゆく。

そうしたありさまを

焼け木杭に火がつく

などと言ったりする。当人たちが自らそう言わぬでもないけれど、やけぼっくいにひがつく、とは多分に第三者的な眼差しがあるように思う。世上、やけぼっくり、と言う人もあるが正しくはやけぼっくいである。私も天津甘栗は好物であるし、寺社の門前などで供されている焼き栗は大変に良いものである。栗きんとん、栗鹿の子、モンブランにマロングラッセ、なにしろ栗については一家言ある私であるから、このまま栗に頁を譲りたい気持ちであるけれど、この場合は栗ではなく杭である。一度火がついて炭化した杭は再び火がつきやすい事から、これを男女の仲になぞらえたものである。

 とまれ、二人の焼け木杭は別離の日からある程度の時間の経過が必要である。特に女性にとって時間の要素は重要かと思う。別れから一週間では焼け木杭に火がつく、とは言わないのだし、少なくとも二人の記憶が思い出として定着するまでの期間を経なければならない。二人が別離に至るには、別離に至るだけの理由があった筈なのだが、年月と言うものはそうしたあれやこれも些末な事に変えてしまうのかも知れない。その時は互いの状況が許さず、自らの思いとは裏腹に相手に心を残したままの別離であれば尚更であろう、あの日好きだった、愛していたあの人が再び現れた、残していったあの日の自分を携えて、再び目の前に現れた。とは心の奥底に秘めていた情動の襞に灯りをともす十分な動機になりうるのであろう。思い出と言うものは、過去の自分と現在の自分とを繋ぐものであるけれど、あの人を通じて過ぎた日の自分の息遣いを感じる時、人はきっとあの日に帰っているのだ。

 他方、男の情動の灯火には時間の要素はあまり重要ではないのかも知れない。思えば、別離の日から数えるほどにシャッキリしているのはたいてい女性である。男どもはと言えば、閉塞感と喪失感に苛まれ、失ったものの大きさに足を取られ、風景は色を無くし、食べるものは味気なく、横断歩道ですれ違う女性は全てあの娘に見える、10分おきにスマホの着信とラインを確認するも全ては徒労に終わり、虚しく旬日を数えるのみに明け暮れる。終いには「あいつも意地を張るからなぁ…オレがこうして寂しくしているように、あいつも寂しく悲しい日々を送っているに違いない。きっとまだオレの事を好きなんだろうなぁ」などと、良く言えば可憐であるけど、実際にはじつにおめでたい事を口走り、周りの失笑を買うのだ。つまるところ、男どもは別離とは言うものの、その後の復縁に向けてまんざらでもない心の状態にあるのだろう。しかしそれはあまりにも彼女たちの事を知らなさ過ぎるのだし、何より心を決めた彼女らに何を言っても無駄である事を知るべきである。

 私も斯くの如くに、したり顔で男どもの心模様を講釈する境涯に至っているのは、私自身がフラれ続けのこれまでを送ってきたからで、次なる悲しい男、ひいては阿呆な勘違いから慮外の行為をする男を出さぬ為の一助として欲しいと願うからだ。私の涙の体験が次なる惨劇を阻むならば、この身を挺し何ら顧みる事はない。我が恥を忍び、大海の如きの涙から濾過された一滴の真理を皆々様に提供するのである。男どもよ、去る女性を追ってはならぬし、未練がましくあってはならない、想い想われた事は真実であるのだから、それからの事は恬淡としていなければならない、執着しない諦念、それこそがフラれ王の極意である。

 さて年月さえ経れば、当然ながら、必ずかつての二人にまた情愛の灯がともるわけではない。年月とは綺羅びやかであると同時に残酷で、いわゆる発火点に至るかどうかは再会したそれぞれ二人の体にかかる引力や物理的な重さ、或いは肌の水分含有量で導き出される事もあるし、さらにヘアスタイル、フォルム、様々な要素が複雑に絡み合い、ともしびの着火量と言うものは算出される。見てくれはどうあれ、優しかったあの人はあの時のままだった、と言う事実が十分な発火量となる事もあれば、あの人はあの時より財布が分厚かった、と言う事が着火剤となる場合もある。人の想像力は奔放で幾筋の道程を辿るようだけれど、なぜかその一方で決まり切った定型を辿る事もある。次々と似たような類型の人とばかり付き合う、と言うのはその典型で、平たくは「好みのタイプ」と言ったりもするが、それぞれの人のそれぞれの遍歴のごく初期の恋人が、その祖型となっている事も少なくない。焼け木杭に火がつきやすいと言うのも、そのへんに一因があろうかと思う。

 互いに別々の道を行ったけれど、何かの悪戯か、いままたこうして目の前にあなたがいる。あなたはあの時と同じ澄んだ瞳で私を見つめ笑いかける。
あの人の瞳に映る私は既に失ってしまった私だ。あの人は私が失った私をずっと携えてくれていた。あなたは私が既に失ったものを還しに来てくれたのかも知れない。

 フラれ続ける私ではあるけれど、私を振ったガールフレンドたちからは大変重宝されている。あなたが以前に連れて行ってくれたフレンチがとっても素敵だったから、今度、友達と京都に行ったときに連れて行ってよ、などの図々しい上に調子の良いラインが後を絶たない。彼女らの食欲を前に焼き木杭は虚しいのだ。せめて彼女らとフレンチに行った際は、デザートは特に頼んでモンブランにしてもらおう。

わざわざ自ら進んで災禍に身を投じる事を火中の栗を拾う、とも言う。

ふふふ

おしまい