除夜の鐘である。
ヤクルトジョアの鐘 ではない。
あれは良い飲み物ではあるけれど、寒空の下で飲んではお腹が冷えてしまう。何の為のジョアなのか、これは本末転倒である。ただ、ジョアのあのずんぐりむっくりとした出で立ちは、どことなく梵鐘に似ていなくはない。なんならヤクルトの社長さんが京都の何れかの寺院にジョアの鐘を寄進して頂けると楽しい。太っ腹である事は言わずもがなであるが、諧謔と茶目っ気とを宿す心の持ち主である事を祈りたい。

東山魁夷画伯の『年暮る』は深閑とした街に音もなく降る雪を描いた、しじまの中の静止劇と言うべき絵画である。街を見下ろす構図は、京都ホテル、現在のホテルオークラ京都の一室から岡崎、東山方面を描いたものだとされている。
ただ、いずれの場所であろうとそれは些末な事に思えるほどに、この絵画は静かでそして情動的でもある。街並みに、家並みの中に人々の営みらしきものは描かれてはいない、が、家々のうちには人があり、生活がある、動いているものは降る雪であるだけにも関わらず、家並みのうちにある人々の生活の断片を想起させる、彼らは床についているのかも知れないし、或いは夜明かしをしているのかも知れない、雪を纏った美しい甍の累々の中にそれはあり、茫漠とした雪の白いもやが街並みを包んでいる。
人が造った均一性と均質性を持つ街並み、そこに住んでいるであろう人々、彼らの生活とは無関係に静かに降り続く雪。

ああ、息を呑むほどに美しい。
静謐な、しかし人の情念を宿したそんな絵画におもう。
この絵画に描かれた京都はすっかり失われてしまった。皮肉な事に均一性と均質性が失われてしまった街を造ったのもまた人なのである。

今宵も除夜の鐘が響き渡る

時は変わっても、その鐘の音が誰にとっても情念と来る年へ向けての望みに満ちたものである事を祈りたい。


皆様、良いお年をお迎えください。

カタシ