カタシ・オグリ。 職業、三文作家
正しかるべき正義も時として盲いる(めしいる)事がある。
彼は身に覚えのないあまあま取り引きの罪で死刑を宣告され、 護送の途中、列車事故に遭って、からくも脱走した。
孤独と絶望の逃亡生活が始まる。
髪の色を変え、重労働に耐えながら、 犯行現場から
走り去った片腕の男を捜し求める。
彼は逃げる。 執拗なジェラード警部の追跡をかわし ながら・・・
現在を、今夜を、そして明日を生きるために


リチャード・キンブル氏のスリルとサスペンスと哀しみと憤怒のテレビ物語はある年代以上の方々ならば詳らかにご存知の事と思う。
また或いは比較的近年、ハリソン・フォード氏とトミー・リー・ジョーンズ氏の主演でリメイク映画化されたから、こちらでご存知の方々もいらっしゃると思う。
テレビ版『逃亡者』の日本での放送は1964年〜67年まで、京都のサン・ジェルマン伯爵と言われる私だが初回の放送時の事は預かり知らない、祖母と共に見たそれは再再放送あたりであったと思う。
私の祖母は大変面白い人で、幼い事を理由にしたテレビ番組、書籍等の「検閲」がなかった。大人向けの愛憎劇、暴力、俗悪、それらのものに制限がなかった。つまるところ、祖母が手に取るもの、見るものはそのまま無検閲のまま幼い私が見る事ができた。真に俗悪なものを祖母は好まなかったから、祖母の検閲フィルターを通過したものだけが、私の元に降りてきたのである。普段の生活に於いても大人うちの込み入った話、惚れた腫れたも、くっ付くも別れるも、金の切れ目が縁の切れ目も、酒乱夫の蛮勇も、倦怠期妻の回春行動も、ありとあらゆるものを耳にしたし、時には意見を求められたりさえした。
どうも大人と言うものは必要に迫られて大人を演じているに過ぎない、その本質は子供とさほどには変わらない、そんな意味の事を私の小さな心はぼんやりと理解した。
そんな祖母と連れ立って歩けば美しいものは先々に満ちていた。シャガールや大徳寺芳春院や梨地蒔絵の文箱、祖母は人の美意識が結晶した絵画や建築や庭や調度品を私に見せて回った。そして吉兆で美しく美味な昼食をとり、家からほど近い定食屋のカツ丼を夕食とする。
「吉兆はんもカツ丼もどちらも美味しいやろ、それでええのや」
あの日、祖母は優しく笑ったものだ。

文学戯曲の世界には清純猥雑と言うべき類型、手法が存在する。
清らかなものと、下卑たものとを同時に描く事で一方の特徴を際立たせる効果を持つ。
純愛の二人に比して猥雑で下品な人物を登場させる事により、二人の清らかさがより際立って読む人をして感動せしめる、と言った寸法だ。
こうした手法は古典的であって、シェイクスピアにもこうした登場人物の対比は認められる。
翻り、これを人の魅力に転じてみると、見たくものには目を閉じ、聞きたくないものに耳を塞ぎ、言いたくない事に口をつぐみ、お花畑で春風に吹かれているかのような類の人より、お花畑で風に吹かれてはいても、風の吹く先の人々の哀しみやら、理不尽の溜息やら、怨嗟の声を見聞きし、言葉を交わせる人の方が遥かに魅力的であるだろう。
欲望に身を委ねその赴くままにする者も人間らしいと言えるのだし、またその欲望を自制する者もまた人間らしいと言うべきだ。
本質的な猥雑の徒になることは勧められないけれど、芭蕉の翁が戒めるが如くに
「高く心を悟りて俗に帰るべし」と
そんな境涯に至る人は達人である。芭蕉は俳諧の妙としてこれを説いたのであるが、これはそのまま人生訓となり得る。
森羅万象に多情多恨。お花畑で風に吹かれていても、世上のありとあらゆるもの俗なもの奸悪なもの淫蕩なもの下卑たものに目を背けてはならない、それは人間理解とその社会の理解、そして自身の人間的魅力となり得るのだ。
知る猥雑を露呈したのではただの猥雑な人である。知ってはいるが、それを敢えては露呈しないのがお花畑の粋な人なのだ。

祖母はよく寝物語をしてくれた。
平家物語、源氏物語、伊勢物語、問わず語り、忠臣蔵、平手造酒、曽根崎心中…
源氏物語は受け取りようによってはかなりハードな男女の秘事物語となり得るし、伊勢物語、問わず語りもなかなかの内容である、古典の清純と江戸の猥雑が祖母の寝物語の演目で、いわゆる子供向けの検閲などは皆無であった。
平家物語の壇ノ浦の場面で 浪の下にも都の候ぞ、と言うくだりがあり、追い詰められた安徳帝と建礼門院が入水するのだが、祖母は吉川英治さんの訳であったか、それを「みなそこのみやこ」と私に話してくれた。
私には寝室の濃紺の闇がまるで水底のように思えて怖ろしく、また大原御幸のくだりでの生きながらえてしまった建礼門院の過去に対する静かさが、みなそこのみやこと相まって、より怖ろしさを際立たせた。

私は世間的なものから距離をとり、その一方で世間と深く関わってもいる。相矛盾したものを内包するのが人であるが、それが私をして人の魅力たらしめているかどうかは分からない。

今般、日々の悪行がたたり、リチャード・キンブル氏と理由は違えど、請求書の束から逃亡者となった私
現在を、今夜を、そして明日を生きるために
私は逃げ続ける

どうせ追われるならば、請求書でなく女性が良い
場合によっては女性を追わぬでもない

その方が請求書より
よほど精神衛生に良いではないか……




南無