人は彷徨う。たとえ決められた道を歩んで来たとしても心は自分の道を彷徨う。
合理性、と言う点からは最短距離で節目から節目を渡り歩くのが最も良いのだろうし完成されているし、洗練されてもいるし、時の節約にもなる。
しかしながら、時折、私のような捻くれ者が現れ、非合理と無駄と浪費を以て、まるで揚屋の二階で茶をすするようにしては、急ぎ街道を行く人々を傍観しては嗤い、嘆き、哀憫を思い、同時に自らの所在のなさと寄る辺の虚しさを思うのだ。

どうも、道を聞かれる、尋ねられる人の類型と言うべきものがあるらしく、そうした意味に於いて、私はよく道を聞かれる種類の人間であるようだ。
老若男女、国籍を問わず、京都と言う場所柄もあろうが、とにかくよく道を尋ねられる。
無論、迷惑であろう筈はない、比較的警戒心を人に抱かせない型の人間であるのを確認するのは嬉しくもあり、また光栄な事であろうと思う。
ところが、である。昨今はスマホのナビを利用する人が増えて私にお鉢が回る機会が激減してるのだ。
いや、これは道を聞かれる機会が激減しているのをスマホのナビを利用しているのだ、と希望的観測で分析しているのであって、ひょっとしたら私の人相が凶悪になっているのかも知れない、いずれにしてもこのような機会が減るのは大変に寂しく思うのである。

そこで私は道端などで立ち止まり、目的地、或いは方向などを探してると思しき人に対しては積極的に声をかける。
これを新手のナンパなどと言ってはいけない。
た、確かに女性に声をかける比率の方が圧倒的ではあるけれど、私の中に下心の曇りなどは一点もない、本当にない。ないったらない。
せっかく京都に来て下さる方、外国人の方、出来得る限り気持ちよく京都を満喫し、よい思い出と共に家路について欲しい。
たかが道案内ではあるけれど、その心持ちに於いて、私は京都人代表のつもりでいる。私に何かしら粗相があれば京都人全体のイメージが損なわれかねない、責任は重大なのである。

スマホナビは大変に便利である。だが、画面を注視して歩くのは危険であるし、何より点から点の移動になってしまい、その間の景色なり街並みなりが御座なりになりがちである。加えてナビの傾向としてはなるべく大きな道で案内しようとするから、京都の路地、辻子(ずし)、突き抜け、などは見逃しがちになる。じつはそのような細い路に京都の魅力が多くあるのに勿体無い事である。時間にして数分程度の事なのだから、少々非合理であってもこのような路を歩いて目的地へ向かって欲しい。最短距離ばかりが道ではないのである。

目的地が定まっている。行きたい場所がある。
そうした時に導く人の存在は頼もしく、かつ有益である。
合理性の中の非合理な瞬間は時に人生を、旅を豊かにする。思いがけない事が思わぬ彩りを添える瞬間があるのだ。
人生に、旅に、時間の制約がなければ、わざと迷い路に入っても良いではないか。そもそも旅にはともかく人生に時間の制約などないのである。
漠然とした方向と方角さえ定まっていれば、迷い路は迷い路とはならない。一瞥して非合理で非生産的で無駄とも思えるものこそが人を豊かにするのだ。
方角さえ定まったら大いに迷ったら良い。迷い路の中に身を置いたら良いのだ。

道案内をした方と、数時間経って出くわす事がたまにある。
日本人の方であれば
「ああ、どうも」
などと言ったやり取りになるし、これが陽気なアメリカ人などであれば

It's a small world」

と、私に声をかけてくれる。これに対して

「For you and  me」と返す

笑顔になる彼女
ニュージャージー州アトランティックシティ出身28歳独身ちゃん

誓ってこれはナンパではないのだ……

ふふ