嬉しい誤算、誤解、と言うものはあるもので、皆様の中には現在の私のスーパーヒーローぶりをご覧になり、幼少の時分にはさぞかしその神童ぶりを近隣に響かせたのであろう、と、仰って下さる方もある。
そう、私は産院ではなく馬屋で産まれ、すぐに天と地を指差して、天上天下に僕一人、と宣い、すると東方から三人の賢者が祝いに訪れ、長じてよりのちは十人もの人々が同時に話す事を聞き分け、杖を地に突き立てた場所から温泉が吹き出し、やがて天下布武を旗印に並ぶ者のない栄華を極めたのであろう、と。
嬉しい誤解ではあるものの、間違いは速やかに正さねばならぬ、そもそもそのような私であれば、京都の片田舎で日々をばあちゃんとのサスペンス三昧で過ごしてはいまい。

幼い日の私は常にぼんやりとした大人しい、そしてよくいじめられた子であった。
外で遊ぶよりは本を読んだりお絵描きの方が好きで、たまさか外にいるときは盆栽やら花を見ているのが好きな、いわゆるらしからぬ子ではあった。
自転車に乗れるようになったのは小学校2年生で、これは友人関係の形成という点で圧倒的に不利であった。行動範囲の狭さはそのまま友人関係の狭さに繋がり、近所の決まった友人と行動を共にするか、一人で遊ぶ事を常としていた。
野球、と言うものを初めてしたのは小学校6年生、上手くできる筈もないのだし、運動自体にも興味がない、本で読むジャッキー・ロビンソンやスタルヒンの事を知り、逸話の世界に身を投じる事で満足を得ていたから、自身で野球をやろうなどと夢にも思わなかった。私にとって野球とは図書室でするものであった。
取り柄と言うものは誰にでもあるもので、体育以外の成績は比較的良く、神童には程遠いけれどそれなりには評価もされていたようには思う。

小学校4年生の時に図書室に置いてあった、アルベルト・シュバイツァー博士の伝記を読んで医師になりたいと思った。研究室の医師ではなく、自らの利益とは無関係に病める人の元にある医師でありたい、今で言うなら無医村に赴く医師になりたい、と私は願ったものだ。これは私が思い描いた最初の夢である。
ただ、この夢は間もなく挫折する。算数、数学と言う得体の知れないものが私に立ちはだかり、加えて生来の不器用が確信に変わる。
私のような不器用が医師をしていては何人もの命を危うく、或いは虚しいものにしてしまうか知れない、結果に於いて私は医師を諦める事で何人もの命を救ったのだ。

中学に入った私にも皆と同じ反駁の日々が訪れる。
ただ、それは粗暴と粗野という方法ではなく、言葉と言う方法で具現された。
テストがあるから勉強をしなさい、と教師が言う。
それに対して
「僕は人からテストされないし、テストの為の勉強が真の勉強と言えますか?無意味や」
と言い放つ。
粗暴な生徒より遥かに扱いにくい、憎たらしい、それでいて成績も悪くはないから最も対処に困る問題児であったように思う。
なにかのテストであったと記憶している、解答欄にマハトマ・ガンジーとすべき所を私は早見優ちゃんの楽曲、夏色のナンシーに引っ掛けて、夏色のガンジー、と書いてこっぴどく怒られた。
教師は偉人をそのように茶化すものではないと私を諭す。私は私で正解にしなくても良いのに、これが笑えないなんて余裕のない阿呆だと思いつつも黙ってはいる。

人間理解の方法と言うものがある。
善人とされるべき人がどのような場面も必ず善行を行うのならば全く問題はない。或いは、悪人とされる人がどのような場面も必ず悪行を為すならば何も問題はないのだ。
しかし人間はそうではない。善人とされる人も時折良からぬ事をしてしまい、世間的に悪人とされる人ですら、どのような場面でも必ず悪行を為して来たわけではなかろう。
偉人とされる人にも影はある。アルベルト・シュバイツァー氏にも影はあり、ガンジー氏にも影はある。影の濃さは分からないけれど、人間理解としてはそれもまた人の人である所以なのである。
私自身、どのような時も善行を為してきたわけではない。日々そのような自分を情けなくも思う。
情けなく思わなくなったとき、影はその濃さの度合いを深めていく。
人を許さない、許せない人々が増えている。中には当事者でもないのに人に対して罵声を浴びせる人々がいる。
そんなご自身はどうだろうか、こんにちに至るまで何の過ちもなく、どのような場合も善行を為してきたと言えるであろうか。
人を許す、とは人間理解の深度と関係する。
分かってはいても、ついつい良からぬ事をしてしまうのが人なのである。
もちろんやってしまう事柄の軽重はあろう、しかし許せる人でありたいと私は思い願う。そしてその一方で許せない数々を思い反省をし、葛藤もする。
そうした自己矛盾もまた人の人たる所以なのだ。

罪を愛する事はできないけれど、人を愛する事はできる筈なのだ。

ならぬ堪忍するが堪忍
と言う

今日の講義
おしまい