広義に於いて芸とはその人の修練により会得した衆人に稀有な特技特質の事である。
何も人を楽しませ笑わせる事をのみ芸と称するのではなく、人を驚嘆せしめ、かつ尊崇の対象となり、時には畏怖されるような域に達した教養学問、技術、技能なども芸と言う。 
然るに「武芸」とは武道一般に於いて修練、修行により研ぎ澄まされた武の芸を言うのである。

侍、とは時代時代に相当の変遷があり、単一の定形イメージで侍を語るのは非常に危険である。
例えば戦国時代と江戸時代では実際に戦う侍と戦わない侍と言う大きな違いがあるし、侍の技能として尊ばれたものも相当に違う。
実際に合戦が繰り広げられた戦国時代、名のある侍に最も求められたのは一軍を統率指揮する能力であって、剣術の能力ではない、一軍を担う大将自ら戦場を駆け回るなどと言う事はあり得ないし、増してや抜刀して敵と組み合うなど皆無である。
足軽に於いてすら、通常は槍で戦い、槍が折れるなどした場合の予備として刀を使うのであって、刀を扱う技能は戦国時代を通じ、さほどには評価されなかった。
塚原卜伝から免許皆伝を得た剣の達人として知られる足利義輝の如きは例外中の例外なのである。
昨今の武将ブームと刀剣ブームの影響で、戦国武将は皆剣の達人であるかのように誤解している人も多いが、戦国時代の刀剣とは武将の位が高ければ高いほど、実戦的な武具と言うよりは装飾品であり、威を示すものであり、儀礼的、儀式的なものであるのだ。
逆に言えばこれだけの名刀が残っているのは、戦場へ持参しても実際には武具として「使われなかった」からなのであるし、神社への奉納品として戦火を潜らなかったからに他ならない。

剣術と言うものが重んじられるようになったのは江戸時代に入ってからである。つまり、戦わなくなった武士は武士の在り方について非常に観念的になって行き、個人の修練に重きが置かれた。更には儒学の影響を多分に受けたが為に忠義と言うものが武士の最高の徳目とされ、武士の精神性が重視される時代となった。
無論、戦国武士に忠義がなかった訳ではないが、この時代の武士は多分に己の芸を売る、と言う気分が強い。
主を見限って逐電するなど茶飯事であるし、また主に力量がなければ主家を乗っ取ることも正義であった。プロ野球で言えば戦国時代の武士は常にフリーエージェントの状態である。もちろん球団の好き嫌い人間関係の好悪はあっても、基本的に己の芸を高く買う球団に移籍する。江戸時代の武士はそうではない。主君がどのようなバカ殿であろうが、代々の禄を喰んでいる以上は基本的に生涯の忠義を無条件に強要される。
戦国武士の気分で言えばたまったものではない。

戦国武将、刀剣がブームになって久しい。
これに限らずどのような事もブームになると浅く広い知識が広まり、資料に拠る実像より観念的なイメージで対象物を捉え、それが一般化される事により客観性と事実が損なわれる事がある。
娯楽作品として制作された時代風ドラマ、そして時代アニメやゲームは悪くない。悪くないし完成度もそれなりに高いのだから楽しんだら良いと思う。ただあれを基準にして自らの歴史観を構築すると非常に偏った歪なものになりがちである。

さしあたり浪人者のカタシ
私の芸を高く買ってくださる主どの
こっそり文をくだされ

むふふ