凡人の凡庸性は非難されるべき筋合いのものではない。そうなりそうな場面でそうなるのは凡人の凡庸がそうさせるのであるし、非凡な人がそうなりそうな時にそうならないのは、彼の非凡が非凡な道を歩ませているに他ならない。
彼がそうなりそうな時「ほら、そうなったでしょ」と衆人に揶揄されるのも取り方によっては人間臭い、まことに人間味溢れる証左と言うべきで、人間理解の点から言えば愛すべき人間の一典型と言えなくもない。人の人間味は本来的に否定される性質のものではないのだ。
ただし、である。そうした人間味溢れる凡人が自分を非凡であると思い込むのは良くない。そうなりそうな時には常にそうなってきた自分であるのに、そうなってきていない自分であるかのように振る舞うのは傲慢であるし、思い上がりも甚だしい。
私を含めた凡人に必要であるのは謙虚さと自らの凡庸性の認識である。

「医は仁術なり」などと言えば、現代に生きる医師の多くはその陳腐さと、埃っぽい語感とに腹を抱えて笑うかも知れないし、或いはこの語自体を知らない可能性すらある。ただ知らぬまでも、患う者に慈しみの心を持ち、その命と真摯に向き合い救う事が医師の根源的な目的である、と肝に銘じてさえいれば良いのだ。これを建前とするのみでなく、実践できる医師は非凡である。
砂漠の中に煌めく一粒の砂金を探すように、非凡な医師を探す旅を私はかれこれ30年ほど続けている。
予め断っておくが、私は人として凡庸な医師の凡庸性を責めているのではない、この場合の凡庸性とは、医師稼業として形而上の事を問題にしているのであって、彼が医師としての技能が非凡であれば結果に於いて人々の命を救う事になるのだし、それで医師稼業として十分職責は果たせているのだ。非難など筋違いである。
医師となった。良い暮らしがしたい。何とか稼げるようになった。小金を手に入れたから土地を買って家を建てた。車はメルセデス・ベンツとレンジローバー、妻と子供が数人とついでに愛人も数人。
医師に限らず小金を握った人の行動としては何も変ではない。こうなりそうな場面でこうなっただけである。まことに彼は人間味溢れた凡人である。ただし、非凡な稼ぐ能力の一方で、人しては凡庸極まりない事を自ら分かっておればそれで良いのだ。

クリニック砂漠を渡り歩いていると、時折非凡なクリニックとドクターに出くわす事がある。
まず、そのクリニックの規模に対してスタッフの人数が多い、そして何より街のクリニックとしては分不相応なほどの最新鋭の検査機器なり治療機器を導入してある。
このクリニックの主はDr.Y。還暦を少しばかり越した白髪混じりの温和な紳士である。
私と同学の医学部出身であるから、私の先輩でもある。
街中のクリニックの くせに MRIが二台も設置してある。
「標準的なメルセデス・ベンツが20台くらい、かな」
と、この紳士は笑う。
「借金漬けで首が回らんよ、自宅は抵当に入っているし、何も残せない子供たちには悪いが、これは僕一代の道楽やね」
などと非凡な事を言い、さらに
「こうした街の末端のクリニックの役割はとにかく病の早期発見をしてあげる事。このクリニックでは手術を含めた治療に限界があるから、予兆を見つける、早い段階で見つけてあげる事が何よりの役割なんや、その為の投資なら何億でもするわ、銀行が貸してくれたら、の話やけどな」
と、この非凡な人は豪快に笑う。

和光同塵と言う。偉い人は必ずしも図書館の偉人伝の中にのみいるのでない、市井に紛れ非凡な自らを余人に与え続ける人もいる。
そうした方が良いだろうに、そうしない人がいる。凡人の理解の及ぶところでない場所で屹立している人がいるのだ。
時にこうした人を何も理解できない凡人は奇人と言うけれど、そもそも「奇人」とは、優れたる人、と言う意味である。優れたる人の事を凡人が完全に理解できよう筈はないのだ。

凡人の私に分かっているのは20台のメルセデス・ベンツは命を救わないけれど、2台のMRIは確実に命を救うきっかけになると言う事だ。

市井の非凡な人を見るのは
まことに清々しい

むふふ