若さとはいつも目にした矛盾や偽善を日常的なものとして、よくある事として消化できない。大人たちは単に大人を演じているに過ぎないと、そんな境地に至っていないのだ。
清純は汚点を許さない、汚点が自らの清さを蝕んでいくのを避けるように、穢いものに反駁の狼煙を上げる。ただその反抗は論理を伴うまでに洗練されておらず、より粗野で粗暴で直情的な方法で発露される。
可憐でささやかな抵抗はしかし、大人の理解するところではない、大人はかつての蹉跌や慚愧や悔恨を忘れている。理不尽に涙し、自らの無力を思い知らされたあの日の事を忘れてしまう。矛盾や偽善に対し無感覚な自分に作り替える事を世間では大人になると言うのだし、作り替えられなかった者は世間と自らの歪みに苦しみもがく事となる。
そう、若さだけに限らない、歳を重ねた者どもにとっても、実にこの世は感じられなければ喜劇、感じられれば悲劇なのである。
不幸にして青い日々のうちから、そうした矛盾や偽善に接し続け、穢さを強要され、幼い大人にならねばならかった子がいる。
彼の清純が甲高い悲鳴を上げ自己防衛の為に、より先鋭的な状態で大人や社会に向けて反抗を形成してゆく、それを喜劇の中にいる大人たちは阿呆の一言で片付けてしまう。
違うのだ。真の敗残者は日々理不尽と偽善に目を背け、口を噤み、耳を貸さず、あまつさえそれに何ら背徳を覚える事のない喜劇の人たちなのである。

さて、私はそんな反駁の日を送る兄ちゃんや女の子に話しかけるのを趣味にしている。
ただし、どのような場面でも良いわけではなく、一人でいる時、そして不意をつくのが大切である。
数人で徒党を組んでいる彼らに話しかけるなど自殺行為に等しい。これを命知らずと言う。
「なんやねん、おっさん」
と、シバかれて終わりである。こうなると私の骨を拾う者すらない状況に至る。
例えば、信号待ちで隣り合う時、コンビニの駐車場で、一人でいる時の彼は一個の好青年である。
君のバイクがクールである事、君の彫り物が凝ったものである事、尖ったファッションにアクセサリー「兄ちゃん、なかなかええやんか」の一言で彼の相好は崩れる。世間に向けた威嚇は鳴りを潜め、虚を突かれて彼の嘲罵のファイティングポーズはこの場に間に合わない。
「詳しいすね、ヤバいわ」
そう笑う彼はじつに良い面構えをしている。そこには全ての覆いを取り払った無垢な二十歳の若者が現れるのだ。
無防備な彼にあれやこれやと説教がましい事を話すのは野暮の極みでもあるし、何より機微と言うものに欠ける。
この場では他のおっさんとはちょっと違う、変わってると思ってくれたらそれで良い。そしてやおら
「おっさん、タダでメシ食べられるとこにおんねん、良かったら今度遊びに来たらええわ」
などと連絡先のカードを渡す。
不思議なわけわからんおっさんに魅入られて、5人に1人くらいの割合で私の元を訪れてくれる。生憎、私が山里にいる時に来てくれる子には連絡先を聞いて直接詫びを入れて後日来てもらえるよう約束する。

来てもらうだけで良い。彫り物を消せだとか、鼻ピアスやめとけとか、その種の事は一切言わない。
話をするだけで良い。もちろん込み入った話も立ち入った話もしない。
心の囲いが取れた時の彼らは脆くて危うい程に無防備である。その無防備をさらけ出してくれる関係を私は信頼と呼ぶのだ。
傷つき悲鳴を上げるのはいつも悲劇の中にいる者たちである。喜劇の中にいる者は悲劇を傍観し、かつて自らの青い心が悲鳴を上げた事を忘れている。

鈍色の心には、透き通る青さの煌めきが分からないのだ。
鈍色した喜劇を日々生きる者よ、その可笑しさは自らに向けられたものなのであると知るべきなのである。

南無