香りと思い出との相関性について、プルーストやベルクソンの例を紐解いて語るのは、今や古典的ですらあるらしい。香りによって懐かしい日を思い出す、想起する、褪せたあの日が彩りを取り戻し、心の奥底から浮かび上がる、あの日の感情や、皮膚感覚までも心に甦る。
これらについては私が詳らかに説明せずとも、脳科学的な見地から1から10まで情け容赦なく説明できるものらしい。
ただ私は医師でも研究者でもないから、脳科学的な見解よりは、心の模様として記憶と香りを語ってみよう。事実と真実がどのような場合も美しいとは限らないのだから。

季節外れで恐縮である。
雪に香りがあるものかどうか、雪の日の早朝に脆いくらいに引き締まった空気に触れると、鼻腔の奥がつーんとする。地面や緑や、家屋や、全てのものは白い蓋をされているから、香るものは雪以外にはないのであろう。
特に主張のある香りではない、ひどく平明で、ともすれば何物にも染まり、何にも混ざる、あの白さと相まって混じり気のない、純粋な香りとも言える。

雪の日には思い出がある。
私の自宅からほど近い大通り。
早朝、雪降る歩道を行く親子、お母さんと5歳くらいの女の子だ。
大きな傘と小さな傘が縦に並んでいる。
なぜ、隣り合って手を繫がないのか、私は不思議に思い、二人の様子を凝視する。
ああ、謎はすぐに解けた。
ふくらはぎの下まで積もった雪、お母さんは足跡のない新雪に自らの足跡を刻んで、女の子は踏み締められた足跡に自らの足をおいて歩いている。
お母さんは我が子が歩きやすいように歩幅を小さくしながら、新雪を押し分けて行く。
お母さんと女の子の話す言葉が白くなって舞い上がり、笑い声も舞い上がる。
愛と言う無形のものを、有形物として私は見た。
あの女の子が母親になったとき、あのお母さんがそうしたように、新雪をかき分けその子に足跡を踏ませて行くのだろう。
バス停までの愛情のみちゆき、振り返れば親子の歩いた道のりがひとすじの線となって続いている。
雪の日のつーんを感じたなら、あの子は今日を思い出すのかも知れない。
母さんが歩いたその後ろを歩いて行った日の事を思い出すのかも知れない。

今は夏。あの歩道は赤茶色をして、もともとの姿を顕している。たなびく陽炎のもとを夏風に翻弄されながら蝶が渡る。
あの日以来、あの親子を目にする機会はないけれど、この歩道を行くときはあの二人を思い出す。
ずっと先、次の雪の日、あの日のようにたくさん雪が積もったら、ゆきを手に掬い香りを確かめてみよう。ゆきを頬に当て私の体温でとかし、その雫の一条を指に絡めてみよう。
ゆきの香、それはあえかに思い出の奥底にあるもの、私にかつてあり、今は失ったものを甦らせるのかも知れない、あの親子にあったような、あの愛情をゆきの香りは知らしめさせてくれるのかも知れない。

盛夏にゆきの香を想う