人と人が接する。人と人々とが接する。すると個人としての角が摩滅し丸みを帯びて、或いは面となって、個人と個人とが、或いは個人と集団とが接しやすいようなコミュニケーションの方法やらルールのようなものが形成されて、集団として暮らしやすい地域へと変貌を遂げていく、個人としては大なり小なりの制限を受けるものの、各個人がそれを受け入れる事で集団として、地域としての安寧と秩序が保たれ、集落は成立する。つまり個人としては大なり小なりの制限を受け入れる事で集団社会の一員として資格を付与され、自らもつ権利を集団に対して主張できるのである。

稀に絶対少数ながら、集団のルールに対しこれを破り、抗い、集団の秩序を大きく乱す者が現れる。
これは、前時代の村落ならば村八分となり、都市ならば排斥の対象となり、埒外の人間となって人別帖から外され無宿人となり、各地に放浪するか、属性を同じくする者同士が集い、やがてアウトローの集団を形成するに至る。それが現代ならば地域の中の要注意人物として忌諱され、時に排斥され、やがてその地域を自ら離れるか、似たような属性の人間と小集団を形成する。時代の差こそあれ、人間の行動原理はさほどには変わらないのである。


人の絶対数が多ければ多いほど、個人の角の摩滅具合が進み、人とのコミュニケーションがスマートになり、人あしらいが洒脱で人当たりも柔らかなものとなる。これを洗練と言ったりするのだが、村落より町、町よりは都市の方が人の数に於いて洗練の度合いが高いのは自明の理なのである。
都会の中にあってすら、人との接触を拒み、避け、自らの小さな集団に埋没していく人はいつまでも洗練される事はないし、同じく似たような属性の者同士が寄り集まるような小集団でも同じ事が起こる。
例えば、新興の高所得者のみが集まるような街区に於いては他の階層に対し排斥や忌諱と言った現象が起こりがちであるし、その集団内で限定的に構築された洗練や振る舞いやルールは、他の階層から見れば嫌味で鼻持ちならない、人を見下したような態度に見える事も儘ある。
真の洗練とはありとあらゆる階層に受け入れられる普遍性であり、品性の高い人とはどのような場面に於いても嫌味がなく、洒脱で、共感力が高く、攻撃性よりも寛容性を感じさせる人である。下町などの代々に渡る都会人が住むような街区では、人の気質として排他性より受容性を感じさせるものだが、数年前、南青山の児童相談所を巡って、新興居住者はこれを排斥しようとしたのに対し、旧来からの居住者はこれを受け入れようとする気分が強かったと言う。これは都会人としての初級者と代々の都会人との人あしらいの違いと読み取る事もできまいか。人付き合いや人への対応の面で、長く都会に沈殿された無形のものは、このような場面でより鮮やかに発露される。
人を量る尺度を金に求めた時に、残念ながらこのような事案は起こりやすい。年収のカーストが通用しない場所など世の中の至る所にあるのだと知るべきである。
高級品を所有する高級でない人が量産され続け、品性や洗練と言ったもの軽んじられる世の中、金は品性にとって十分条件であっても絶対条件ではない、卑しい金持ちであるよりは、洗練され品性の保たれた魂の没落貴族である方がどれほど救われるか知れやしない。

実情はともかく、魂の没落貴族たる私が夏の午後によく冷えた三ツ矢サイダーをタンブラーに注げば、傍目にはたちまち、モエ・エ・シャンドンに見えるし、マディソンスクエアバッグはルイ・ヴィトンに、ホンダはベントレーに化すのである。

拝金主義者どもよ、没落貴族のエレガントをとくと見るが良い……
ひがみなんて言ってはいけない…


むふふ