皆様はきっとお笑いになるだろう。
じつはこの私、何度か出家しようと思った事がある。私を知る人はゲラゲラ笑うし、もう少し私を知る人は
「いつかそんな事を言い出す気がしていた」
と言うし、また更に私を知る女性は
「尼寺やったらええのと違う?」
と失敬な事を言う。だいたいヒゲのちょっと濃い尼さんなんて何処にいるのか、全く失礼極まる。それとも多様性ファッショはついに仏教界に及んでいるのであろうか、もしそうならばヒゲとすね毛の尼寺、ちょっぴり見てみたい気はする。

そもそもが10代の頃に厭世の入口に立った私には逃避願望が強くあった。宿縁から、苦悩から、懊悩から、しがらみから、何より自分から、私は逃げたかった。10代特有の感傷が私を独りよがりの世界へと駆り立て、逃げさえすれば目の前には煌くばかりの楽園が広がっているような、そんな阿呆な錯覚に囚われていたのだ。
年月を経て、モノの消費と言う楽園を味わい、私も皆と同じようにくすんで擦れてゆく、しかし僅かばかりに残る清純が私に対して、それで良いのかと責めるのだ。
それが片足を楽園に入れたまま、私を厭世へと向かわせる見えざる手になっている。
実に狡くてなまっちょろい男である。このような男に出家などおぼつこう筈などない。
日々を真摯に己と向き合い修行する僧侶に恥ずかしいし、出家など中途半端な私にできる筈はないのだ。

出家などと口にしながら、特定の信仰を持たない私は寺社仏閣、教会、モスクに出入りしている。それぞれが師と仰ぐ人や友人の手引きによるものである。
自然状態での神や仏の存在。それは正直、私には分からない。
ただ、神や仏の存在よりはその不在を思わせるような事ばかりが起こる世にあって、固く信じるものがある事は幸せだと思う。いや、皮肉ではなくて本当にそう思う。
いつも寺院、神社、教会、モスクで人々は祈りを重ねる。もちろん自らの事を願い、或いは人の事を願い、世の平安を願い、そして今日の訪れを感謝し、人々は畏れ頭を垂れる。
誰かの幸せ、誰かの病気の快癒、その人生に佳き事あらん、と人々は願い頭を垂れる。
その姿こそ、私は仏であり神だと思う。
仏教では仏性と言ったりするけれど、私なりの拡大解釈をすれば、人の心には既に小さな仏や神が宿っているのである。
病にある夫を想い頭を垂れる妻、我が子の安寧を願いひれ伏す親、誰かを思い、誰かの幸せを願う心は神や仏そのものであると私は思うのだ。
そうした人々の姿は美しい、人は生きながらにして仏になれるのである。
人が人を思う気持ちに何教や宗派があろう筈はないではないか、その気持ちはどの宗教であれ普遍的なものでなければならず、まして良し悪しがあるわけがない。

私は寺社仏閣、教会、モスクで祈る人々を見るのが好きだ。
人の最も崇高なものを見る思いがする。
人は小さく弱い、大きなものにすがり、大きなものに願うとき、その人はそれまでより少し大きくなるのだろう。それは勇気と言っても良い。小さな存在であっても勇気があれば、人は人を幸せにできるのだし、ひいてはそれこそ己が幸せになれる一番の近道なのだ。

さて…クールビューティーでコケティッシュな尼僧ちゃんたちが集まる、そんな素敵な尼寺はないやろか
ヒゲは毎日ジレット四枚刃でなんとかするとして、すね毛はムダ毛シェーバーでごまかそう…

クールビューティー寺
コケティッシュ寺
そんな尼寺のスタッフ募集はないやろか…

Indeedをチェックしてみよう…

南無 ムフフ…