唐突であるが私はよく泣き、泣かされ、そして少し泣かせる。
私の涙。悲しい涙、悔しい涙、嬉しい涙、感じ入る涙、たまねぎ涙、フラれ涙
数え上げたらキリがない。
子供時分から泣き虫で、さりとてそれを咎められた覚えもない、悲しれば泣き、悔しければ泣き、心がどうしようもなく感情で満たされとき、もて余した余剰のひとすじとして涙は流れた。

古典などをつらつら読んでいると、淡々としていても、劇的に人の喜怒哀楽が綴られているものが多い、読み物である事を差し引いても、昔の人は喜怒哀楽に対する肉体表現が豊かであったのであろう。サムライであっても例外ではなく、彼らもよく笑い、そしてよく涙した。
そう考えると、めったな事で男は泣くべきではない、と言う例のアレは日本の長い歴史上ほんの短い間に培われた価値観である事が分かる。
昨今は男らしさ、女らしさ、を見直す事が多様性との抱き合わせ販売のように隆盛を極めているが、何の事はない、『涙』に関してのみ言えば元の木阿弥、かつての日本に戻っただけである。

さらに唐突に混浴である。
ああ…素敵な響きである。
かつての日本には都鄙を問わす混浴が広く普及していた。
ところが、明治に入り国家の体制を西洋風に改めるのに伴い、風俗やら慣習までを西洋を範を取るという粗っぽい事をしたが為に全国から次々と混浴が消えていった。
混浴などと言う蛮習を残しているのは一級国たらんとす我が国の恥である、と言うのがその理由だ。
事の是非はともかく、混浴などは結果に於いてジェンダーフリーのさきがけではないか。
もちろんこれは風俗であって社会システムではないから単純な比較はできないし、混浴を増やせばジェンダーフリー先進国となるわけでもないだろう。
ただ、日本人は西洋由来の価値観に弱い、弱いのみならず無条件に思考停止のままそれを諾とし絶対善としてしまう所がある。
私などは日本発の世界的普遍性を得るような価値観があっても良いと思うのだが、賢いとされる人は「欧米ではね、」と賢くない事を連発する。

「循環型社会は欧米では常識になっているから日本でもやらなければならない。」

人の面白味と可笑しみと愚かさは人間的な尺度で言うところの『賢さ』で表されるらしい。


何の事はない。昔の日本はSDGs社会そのものである。

青い鳥を探して欧米を旅しても青い鳥はいないのだ

皆さん、ちょっとだけで良いから日本に帰りましょう
誰しもが、もちろん外国の人々も笑顔になれる社会ならば、必ずしも欧米である必要はない。多様性の時代『欧米らしさ』を基軸にものを判断するのやめませんか?
ああ、混浴、行きたいな……

今日の講義
これでおしまい