物心ついたあたりから、神妙にしなければならない場面であるほど、ソワソワしたり、アホな事を想像して笑えてしまい、収集がつかなくなる事がある。
昨今ならば、しかつめらしい病名を付けて貰える事案なのであろうが、当時は「落ち着きのない子」で処理され、この程度で病気にされる事はなかった。
大変よい時代であった。

いったい笑いとは対象物との落差であろうかと思う。神妙で厳粛さを求められる場面で阿呆な事が起こるから面白いのだ。たとえば私が阿呆の限りを尽くして旅立った時、僧侶たちにはきぐるみで読経して欲しい。また、参列される方々にはめいめいが趣向を凝らした姿でお出で頂きたい。
残念なのは、この素晴らしいショウを自ら楽しめない事だ。
本物の阿呆だと言われて旅立つ、私にとってこれに勝る香華はない。

昨今は結婚式もその規模を縮小する傾向であると言う。が、ある友人などは、同い年であるにも関わらず、昨年の秋に三回目の結婚式を断行した。
初婚である新婦側からの要望であるそうだが、恐るべき図々しさである。
過去二度も祝儀をふんだくっておきながら、舌の根の乾かぬうちに三度目の祝儀をも画策せんとするその所業、許されるものではない、私が結婚をした事がないから僻んでいるのではない、妬んでいるのでもない、ないったらない。
この言語道断の暴挙に対し正義の鉄槌を下さねばならないのだ。
幸い私の元には彼の二回分の結婚式の様子が画像資料として保管してある。これを今回の結婚式でスライド形式で公開してはどうかと、彼の弟氏に諮ったところ
「やめて下さい」
と、冷たく却下された。面白さよりも兄弟愛が勝る瞬間である。弟氏とて三度の皆勤賞なのだ、言いたい事は山ほどあろうに、不肖の兄を庇い立てするとは、なかなかに見上げた性根の持ち主である。
その見上げた兄弟愛と新婦側の心情に鑑みて、上映会は諦めざるを得なかったが、祝儀は図書カード1000円にしておいた。当然である。文庫本でも買って少し賢くなると良い。

私にとって結婚式とは、可笑しさを制御する試練の場であって、もちろん会場がテーマパークのような教会であっても、神父さんが役者であっても、男たちの服が真っ黒であっても、それは日本スタイルの結婚式であると、甘んじて受け入れるし、そのような事を声高に言うのは野暮の極みだとも分かっている。
ただ、過去に於いて何度か衝撃的な結婚式参加した事があり、それ以来結婚式では感情の制御が非常に困難になるのだ。
昭和から平成の初めにかけて、結婚式は〇〇閣、〇〇殿と言った名称の総合結婚式場で行われる事が少なくなかった。神式・仏式・キリスト教式と会場が様々に対応できていたし、披露宴がなかなかにシュールであった。
その最大のものは、新郎新婦が吹き抜けホールの最上部からゴンドラで降りてくる演出だ。
昨夜までバカ話をしていた彼が、高所恐怖症の彼が、神妙な面持ちでスポットライトに当りながら、ウィーンと降りて来る。
私にとって我慢のリミッターが外れる瞬間であった。いけないと思えば思うほどに可笑しさがこみ上げて来る。 
しまいには我慢し過ぎて肩が震え、涙が溢れて来るのだが、そんな様子は私が感激している様に見えたらしい、結果オーライとはこれを言う。
今でも探せばゴンドラ結婚式場は存在するそうだ。
現在ならば逆に斬新な演出としていけるのではないだろうか。
ゴンドラ披露宴。若い人には是非とも検討して欲しい。

数々の試練を乗り越えて来た私。
ふと気付くのは結婚式総合収支である。私自身は結婚式を経験していない、が、友人どもの結婚式への出席はやたらと多かった。中には前述のように一人で三回もの結婚式を行なった者すらいる。
と、するなら祝儀だけでもなかなかの金額に達している筈である。収入0なのに支出は計り知れない。
これは不公平である。人倫に悖る。
ここは過去の赤字を精算すべく、私も結婚式を行うべきではないか。いや、もちろんダミーで。
問題は花嫁であるが、とくに資格はないのでこっそり私に志願してほしい。もちろん報酬と交通費は支給する。
いまから急げばジューンブライドに間に合うのだ。
どうか皆さん憐れな男を助けると思い、一考して欲しい。

情けは人の為ならず

と言う

なさけはひとのためだけではないのだ

よろしく

むふふ