「あなた、そこから始めなあかんの?って。ほんま呆れる事ばっかりやわ」
私の三十代前半の暫くを豊かに彩ってくれた彼女は電話でいきり立つ。
彼女は今、外国人夫と共にレストランを経営している。
幸い、と言うか上客の皆さんがついて店は繁盛しているし、コロナの状況下にあってもデリバリーとテイクアウトを中心にして何とか乗り切った。私も配達を一ヶ月ほど手伝った事がある。
あ、彼女の夫はもともと私の友人なのだ。それどころか彼女を彼に紹介したのも私なのである。彼女は行き着くべき所へ行き幸せを得ている、まことに慶賀重畳と言うべきであろう。
店の繁盛に伴い、スタッフも雇い入れ、フロアは若いスタッフが中心を担っている。その中の女性スタッフがある日突然に鼻ピアスと唇ピアスをして仕事に来たのだと言う。
そこで、オーナーたる彼女が、ピアスを止めるよう注意を促した。お客様が不快感を覚える可能性が高い事、食べ物を扱う場では清潔感を第一にすべき事、そして店を一歩出てからは全く自由であるけれど、店でお客様と接する限りに於いては店のルールに従って貰わねばならない事。
若い彼女は涙ぐむ。その涙をオーナー彼女は了解と反省に受け止めて
「うん、分かってくれたらもうええんよ、明日も頑張ろね、お願いね」
ところがそれに対し
「めっちゃ悔しいです、ピアスあかんのやったら何で最初から言ってもらわれへんのですか?あとになってそんなん言われても困ります」
「えっ………」

何となく誰もが分かっている事は敢えてルールとして明文化しないのを不文律とか暗黙の了解と言ったりする。接客業として鼻ピアス、唇ピアスをするのは非常識である、そのような事はいちいちルールにするまでもない、言わば常識の部類であるし不文律である。と、言うのがオーナー彼女の主張であるし、鼻ピアス、唇ピアスがいけないと言うのなら、最初にルールとして提示すべきである。あとになってダメだとするのは非常識であると言うのが若い彼女の主張である。

要するに若い彼女にとって、暗黙の了解は暗黙の了解ではなかったのである。
こんな事をしていたら、髪の毛の長さとか、メイク方法から、爪の長さ、ありとあらゆる事を店内マニュアルにして了承サインを貰った上で雇い入れなければならなくなる、馬鹿馬鹿しいわ。
とオーナー彼女は嘆息する。
もちろんこれは極端な例であろうし、この一事を以て若者論とするのは乱暴であろう。
私などは何でも面白がる癖であるから、このようなアメリカン式の主張をする若い人が出てきたかと思うとゾクゾクする。

「ダメだと言うわりに書いてない。それはやっても構わないのと同義だ」
西洋式の契約書が膨大な条項に渡るのはこれが為である。
彼の地でシグナルブルーと言う。たとえそれがどんなに卑怯で道徳に反していようと、書いてない限り青信号なのである。
日本人同士である場合、互いの信頼が基礎になっている。書いてはいないけれども、まさか、そんなえげつない事をする訳がない。できるわけがない。が、基本になっている。どちらかの良し悪しではなく、契約に関する本質が違うのだ。

このいさかいを世代間の常識の違いと考える事もできるし、そもそも社会常識など個人の多様性の前には無意味であると考える世代が出てきたのかも知れず、或いは日本人の西洋人化と言えるのかも知れない、いさかいを聞いて、面白がる私は露悪的ではあるけれど、旧来の世代間論争とは明らかに異質な溝が世代間に横たわっている気がする。
若い世代は、そんな事は教わってない、聞いていない、と言い、年長の世代は、そこから始めないと分からないのか、と嘆く。
コントのようなやり取りが今日も日本全国で繰り広げられているのだ。

「わたしが真剣に話してるのに、面白がらんといてよ、ほんま、あなたって昔からそうやわ」

矛先が私に向いて来る。あれやこれ、数々の罪を蒸し返される予感がする
あかん、これはあかん
これは謝ろう、ごめんなさい、しよう

私の必殺

「とりあえず謝る戦法」が使えるのも

長くないかも知れない…

時代は変わりつつあるのだ…