順位を付ける事が子供たちの自己肯定感を阻害するのだと言う。
最高学府かそれに近い学校を出て、文科省にキャリア入省し、仮に出てきた言葉がこれだとしたら、賢い事と受験とは何の関連性も相関性もないと彼らが証明している。気の毒であるし、不憫であるが、何より一番の悲劇はこの種の方々が然るべき地位についてしまうと、社会に、子供たちに、与える影響が甚大である事だ。不憫がその方々だけで留まらないのだ。
自らの憐れを世に連鎖拡散し、ひいては子供たちの人間を『阻害』している。たまったものではない。

子供食堂を母体とする私の私塾はあらゆる事に評価がある。勉強のみならず、お絵描き、工作、果ては御飯を上手に食べられる事、話し言葉の美しさ、硬筆の上手さ、虫とりの上手さ、その知識。小学5年生で徒然草を諳んじている子もいれば、焼き魚を骨格標本のように食べる子もいる、日常会話程度の英語を話せるある子は足が遅い、絵が恐ろしく下手なある子は草むらの虫たちの名と生態を瞬時に言い
「ぼく、虫はわかるけど絵が下手やねん、あかんわ!」
と笑う。そこへ勉強は苦手だけれど、卓越した画才のある子が
「そしたらぼくが絵を描くから、字を書いてぇな、一緒に絵の虫図鑑を作ろうや」
と提案する。
してやったりの光景が眼前で展開されるのだ。
彼らは二人ともいわゆる不登校児童である。学校は面白くないけれどカタシ塾にはほぼ毎日来る、ここで知り合った友達も多い、勉強も最低限はクリアできてる、昆虫博士の方はなかなかの俊才だ。
不登校であるが、学力とコミュニケーションに何ら問題ない、と、するならば学校の存在意義とは出席日数と単位だけになってしまう。
行くための学校。皮肉と言えばこれに勝るものはない。

この子供食堂、講師は私を含めて6人。私の母校の学生と同志社の学生が協力してくれている。
現代的な若い人の気質で言えば、自らの時間を提供すればそこに金銭が発生するのは当然なのであろうが、彼らは子供たちとの関係を金銭以上のものと考え、ほぼ無償でこの任に当たってくれる。本当にありがたい。彼らの中には文科省キャリアを志望する子もいるから、ここでたくさん感じ学んで、次世代の学校教育と言うものを立案、施行して欲しい。

夏になると毎年、この子供食堂の子を山里に招いて林間学校とでも言うべきものを開催している。
ここでの私と区長のショウは子供たちに大好評で、今年もエンターティナーとして、出し物を試行錯誤する毎日である。
ちなみに去年は私と区長のパンスト相撲であった。
素晴らしい出し物に子供たちは大喜びであったが、例のとみちゃんは冷たい目をしていた。
パンストを提供しながら、男のロマンが分からぬ人である。

この夏の一大イベント
私にとっては祇園祭より重要なのである
この企画と立案、運営の途中経過については、次回皆さんにご報告したい。

今日の文科省への愚痴
これでおしまい