創業始まって以来のポンコツ社員。同業他社から送り込まれた白アリと言われたが、そのような事はどこ吹く風とばかりに、ロンドンの街を闊歩し、会社支給のポンド紙幣を湯水の如く浪費し、25年前のイギリス経済を支え続けた私。
その私がとうとうお役御免となり、帰国となった折の事である。
どうもこのまま真っ直ぐ羽田へ向うのも心憂い気がして、急遽会社に掛け合った
「思い立ってアメリカへヴァカンスに行きます、よろしく!」
当時の支社長は大変理解と親切心に満ちた人であったので数秒の沈黙のあと、涙ぐんだ目でこれを諾としてくれた。
向かった先はニューヨークシティである。英国航空のファーストクラスと機内食、そして当時の呼称で言うところのスチュワーデスちゃんは大変に素晴らしかった。
JFK空港に降り立ち、到着ロビーに向かうと『Mr OGURI 』と書いたプレートを持つスーツの紳士がいる。むふふな瞬間、彼こそはプラザホテルから回されたショウファーなのだ。
彼の地でリモ、またはリムジンと言ったりする、一般的には黒塗りのストレッチセダン、その運転手はドライバーではなく、ショウファーと言う。語源はフランス語であったように記憶するが、ともかくもそのショウファーと共にクルマへ向う。
おお、黒塗りのリンカーンコンチネンタルストレッチリムジン。
恭しくショウファーがドアを開けてくれ、私はさも慣れた体を装い車中に乗り込む。
運転席と後席とを仕切るパーテーショングラスがウィーンと下がり、ショウファーが
「オグリさま、真っ直ぐホテルで宜しいでしょうか、冷蔵庫にシャンパンが冷えてございます」
などと言ってくれる。私にとってはシャンパンよりファンタオレンジやミルクの方が良いのであるが、それは次回から用意して貰おう。
やがてクルマはプラザホテルに到着する、セントラルパークの傍らにそびえ立つ富の殿堂である。
それから三週間、私はプラザホテルに滞在した。朝食は部屋で、昼食は階下のオークルームで(あっ当時レストラン・バー  Oak roomはプラザホテルにあった。今は移転したらしい)
時にリムジンでロングアイランドまでクラムチャウダーを食べに行く、同じくボストンまで走らせレッドソックスを見に行く、もうやりたい放題だ。
「Mさん、こんな僕に素敵なプレゼントをありがとう」
私は支社長の深い慈悲と人徳に日々涙していたのである。
そんな日々を過ごすうち、だんだんとショウファーと親しくなる、親しくなるとちょっといけない情報やらその斡旋などを申し出てくれるのだが、幸か不幸か私はその方面には事足りていたし、何より現金をあまり持ち合わせいない。世界中のVIPが利用していると言う.Top Lineのサービスに興味がないでもなかったが、うっかりその道に入ったら最後、各国のエージェントに狙われる存在になるのではないか、クルマのエンジンをかけるとき毎回ドキドキするのではないか、そんな妄想が脳裏をよぎり、ついにあちら側に足を踏み入れる事はなかった。
皆様もここで目にしたものはその胸だけに留めておいて貰いたい。
その後、シカゴ、LAと巡り、私は日本に帰国した。ああ、なんて親切で慈悲深い支社長、私は今でも感謝をしている。

あれから25年、私はこの月・火曜日、集落のお年寄りのショウファーをしている。運転だけではない、添乗員、幹事、コンシェルジュ、全てを兼ねている。
だいたいあの子たちはマイペースだから、目的地で四散してしまうし、きちんと動向を把握していないと大変な事になる。
普段はスローな動きであるのに、こんな時だけやたらと機敏になる、マンガン電池とエボルタくらいの差があるのだ。集落にいる時の彼らは年寄りを演じているのではないかとすら思う。ひょっとしたら背中にチャックがあるかも知れない。
ショッピングモール、日帰り温泉、食事処を回り、その都度点呼確認する。私を除いて6名のじいちゃん、ばあちゃん
「カタシちゃん運転お疲れやな、ソフトクリーム買うたろ」
「カタシちゃん、みたらし団子いらんか」
気にかけてくれるのは嬉しいが、その場にじっとしていて欲しい、園児の行動パターンがそのまま当てはまるのが、うちの年寄りなのである。
帰り道、夕食の希望を募ると焼肉が良いとのたまう。ショウファーの私は急遽道すがらの焼肉屋さんに予約を入れて彼らと焼肉に興じ、肉食系年寄りの底力に圧倒される…
温泉入ってサッパリしたのに、煙に身を委ねる感覚はわけわからん。

ショウファーを2日続けた私、疲労困憊であるが、お年寄りは喜んでくれた。
何の変哲もない、海から近い街へのプチ慰安旅行、ショッピングモールは彼らの5番街なのだし、焼肉屋さんは彼らのオークルームなのだ。
人生の先輩たちの笑顔は疲れを忘れさせる。
「カタシちゃん、また行こな」
と、言って貰えれば嬉しい。
プチ慰安旅行の残金と領収書とを区長に渡す。スポンサーの区長、ご苦労さんと言いながら満面の笑みを私にくれる。

私はふと思い出した
あの時の支社長は私にこんな笑顔をくれなかった

なせだ、それは25年前の謎なのである

むふふ