帰りを待つ人がいるのは、実は大変な幸せなのだろうと思う。
「ただいま」
「おかえり」
二語だけの会話だけれど、互いの関係性の確認が集約されている。最小共同体の縁者や仲間に対する通行手形のようなものだ。山里で私の帰りを待つ人がいる。ベアトリーチェが待っている、と言いたいけれど、その実は薄毛ファミリーが待っている。蛍のハガキを皆様に公開したばかりに、薄毛の人気は私を凌ぐほどだ。あろうことか、私が引き立て役のように見えるではないか。

つらつら思うに、人は自分も相応の悪さを為すにも関わらず、人の悪さは許さないものだ。
人が人を非難糾弾する時には、たいていオレもやりたかったのに、と言う心底が見え隠れしてしている。元来当事者問題である筈の出来事が、何の関係もない第三者に非難される時などはまさにそうだと言っていい。
会社内での人間関係、政治の場での権力闘争、皆それぞれ理論武装をして、しかつめらしい議論を展開するけれど、その底流にあるものは妬み、嫉みであったりする場合が少なくない、人とはたとえそれが、政治であっても、否、政治であるが故に人の欲望に根差した非常に生臭い動機と力学によって動いている。
選挙とはじつに、自分好みのワルを選ぶ作業に他ならないのだ。

少々話が逸れたが、私が薄毛の人気に嫉妬するのも、その底流にある互いの熱い友情と信頼に基づくものである。従って、口では私も悔しいなどとい言いながら、いつもいつも山里の義兄弟を思っている。
「薄毛」などと、荒っぽい事を口にしながら、常に彼の頭髪の心配をし、憂慮し、山里では決して手に入る事のないであろう強力な除草剤を京の街で探し求めているのだ。
何と言う健気と可憐であろうか。私は薄毛を想う自らに感涙を禁じえないのである。

待つ人々に土産を買う作業は何とも楽しい。
あれやこれやと、その人の好みやら嗜好やらを思い、勘案し或いは予算とも相談して、その人の笑顔の元を求めるのだ。
特に薄毛の妹とみちゃんはなかなかの贅沢者であるし、クオリティの探求者である、決して値段に騙される人ではないから、値段に比して品質が伴わねば
「こんなニセモノを買ってきて、何やってんのよ」
と東京風に私をなじる。
受領者としての謙虚に欠けるけれど、何故かこの人には憎めない所がある。
実際、何処かへ出かけたこの人が選んで来るものは洗練もされて豪奢で、それでいて慎ましやかなものが多い、東京と言うのは、田舎娘をここまで磨き上げるものなのか、京都人としては軽い敗北感がある。

とみちゃんにはいつものピエールエルメのイスパハンとエシレの発酵バター、そして末富のお生を買った。あまあまで揃えてみたが、これはもちろん私がおこぼれに与る魂胆である。
薄毛区長には焼酎と梅干しと乾き物セットだ。
そして自分自身に、このところよく登場するジャージーミルクを数本。
かつての私はメグも森永も明治も小岩井も、農協も、全てオールマイティにこなしていたのだが、いつの頃からかミルクを飲むとお腹がゴロゴロ、ミルクの加工品は何ら問題ないのだが、そのままではいけない、かつてのミルク王がこの体たらくである。
ところが、あるマダムに薦められたジャージーミルクを飲むようになってからは、全くゴロゴロにならない。しかも美味しい。
ストレートでよし、ロックでよし、柑橘のシロップで割ってもよし、私にはなくてはならないミルクなのである。

昨夜、山里に到着して区長宅の玄関をいきなり開ける
「ただいまー」
の声に、居間の方から
「ああ、早かったな、おかえり〜」
と足音と共に声が返る
待つ人々が笑顔で迎えてくれるものは良いものだ。私は幸せだと思う。

除草剤の効力については
後日報告したい……
私の義兄に対する愛は無限なのだ


ふふふ