鬼の霍乱と人は言うのかも知れない。
違うのだ。私はこう見えて原因不明の高熱を出してしまう事がままある。
ただし性根が天邪鬼であるから、そのような時にこそ日常生活を営もうとし、結果、症状を悪化させて数日間寝込むと言った事を繰り返すのだ。
学習能力の有無の前に、私には人として大切なものが欠けているらしい。
昨日も朝から体調が悪かったのであるが、私の筋違いと見当違いの反骨が頭をもたげる、体調が悪いから、それ故に私は山に登りに行ったのだ。
いつものように峰を巡り、沢を渡り、自生している木苺を食べ、京都を一望できる場所で休憩し、持参したカモミールティーと発酵バター仕立てビスコのおやつを頂いて、そしていつものように下山した。
そして帰宅し熱を計るとなかなかの高熱。
そのままベッドに入り、昭和と平成を彩った素敵な女優さん達を数えていると、うとうと……うとうと…

ん、ここはどこだ。目の前に大きな川が…
遥か対岸が霞んで見える、目を凝らして見れば、向こう岸で美女たちが居並び私に向かって手招きし、おいでおいでをしているではないか。
これは行かねばならぬ、が、水泳に自信はない、私の最高記録は25メートルである。
困った私は辺りを見渡すと、フェリーの船着き場があるではないか、船体には大きく『SUN'S ferry』とペイントしてある。
渡りに船とはまさにこの事である。
ふと、気付けば私と似たような人々でごった返しているではないか、皆、元気が良いわりには顔に生気がない。
人波に翻弄されながら、乗船チケット発券所兼イミグレーションまで辿り着く。
係員は年配の女性が一人のみ、今風に言えばワンオペだ。これでは時間がかかる筈で、それでも皆が文句一つ言わず行列に並んでいるのは、まだまだ廃れずにいる日本人の美徳かも知れない。
係員の女性、名札には『だつえ』とある。変わった名前であるが、その風貌に合っている。
だつえさんが指示するのには、服を脱いで樹の枝に掛けろ、との事である。
シージャック防止の措置であろうが、服を脱げとはなかなか荒っぽい。
運賃は2等客室が片道チケット六文、今日の為替レートでは600円ほどだ。カードはアメックスのみ、交通系ICカードとコード決済は対応している。

その昔、イギリスから植民地インドへ向かう航路に於いては、イギリスから出航する時は左舷客室、そしてインドからイギリスへ向かう際は右舷客室が最上級の客室とされた。共に強烈な西日が客室に入り込む部屋よりも影に当る部屋の方が上等とされた為に、より上客がそこに集まる結果となった。
そこで生まれた単語が豪奢な、贅沢な、洗練された、洒落た、品のある、を意味する、頭文字で「posh」=port outward, starboard homeであると言う。
日本語では、行くときは左舷、帰りは右舷、と言う程の意味である。私も25年前にちょっと鼻持ちならないイギリス人からそのように教えられたのだが、どうも今現在poshの語源は判然としないらしい。
ただインド航路で上客が太陽を避けた部屋を取り合ったのは事実のようで、俗説であるにしてもposhの語源がそのような事歴によるものであると考えるのは楽しい。

もちろん私はposh styleを実践する男であるから、迷わず、だつえさんに特別客室を所望する。
その刹那であった、おそらく女性の声であったように思う
「行ってはだめ!」
強く腕を引かれ、私は暗闇を落ちていく、そして気が付けば自室のベッドで大量の脂汗をかいているではないか。
恐ろしく現実感のある夢、そして最後の謎の女性は誰なのか。
ふと莊子の胡蝶の夢を思う。
蝶となり、空に舞い、草原を渡り、時に風に翻弄される自分、自分は蝶になった夢を見ているのか、或いは蝶の見ている夢の中で自分は生きているのではないか、蝶の命脈が尽きたとき、自分の一切も終わるのではないか。
私の腕を引いた女性、その女性の夢の中で私は生きているのかも知れない、夢とうつつをはっきり峻別できるが幾人いようか、今こうしているこの瞬間が夢ではないという事がどこに担保されようか。


いま、私は熱にうなされて、丑三つ時にそんな事を考えている。
私の腕を引いた女性はこっそり名乗り出て欲しい。
私はその人の夢の中で生きる存在に過ぎないのかも知れないのだから。

皆様、本日のカタシは臥せっております。
もし名乗り出て下さった件の女性、或いはお言葉を頂いた方、お返事が遅れる可能性がございます。
何卒ご容赦下さいませ。
また、直接看病をして下さる方、あまあまの差し入れ、お花のお届け、カタシ大歓迎でございます。


それではまた
ふふっ