刹那の美。時は移ろい、今は瞬く間に過去へと変わって行く、今は瞬間でしかなく、あとはこれからとそれまでが広がるのみである。
桜の花に象徴されるように、日本の、特に自然物に対する美は刹那的である。嫋やかに、しかし絢爛と咲き、そして散ってゆく桜のさまに、その刹那に、人々は一春の美を見出す。
他方、西洋では刹那的であるよりは、その美の継続性や永続性を保つ事に腐心する。美をなるべくそのままの形で留めておきたいと願うのは、人の最も根源的な願望に符合するであろう。
ドライフラワーの製法がその製造に適していた地中海沿岸部から欧州に広まったのは、そうした人々の美に対する思慕と重なったからであろうし、なにより「留めておく美」が西洋的な美的感覚の一様である事は衆目の一致する所である。
私が敬愛する谷崎潤一郎氏の『陰翳礼賛』にあるように、年代を経たものを西洋ではピカピカに磨き上げるのに対して、日本では年代を経たその時々の味わいを尊ぶ。西洋人が汚れと理解するものを日本人は味わい、景色、として重んじるのだ。

ドライフラワーの製法を見つけるきっかけは日本の歴史上いくらでもあったに違いない。
しかし、それが製法たり得なかったのは、自然物に対する永続的な美への需要が少なかった為と私は推察する。
明治に入って、ドライフラワーもその製法も日本に入って来たが、対訳としてドライフラワーの日本語はついに作られなかったし、また日本の文化の中にもそれに最も相応しいものが見つからなかった。それが故にDried flowerはドライフラワーとして日本語に定着したのである。
押し花と言う素敵なものもあるけれど、これは基本的にドライフラワーとは美的な性質を異にしている。
もちろんこれは比較文化に類するものであって、どちらかの美に対する良し悪しではない、誰かが、権威が、これを美しいと言ったから自分も言わなければならないなどと言う事はないし、美は常に自らの内にあり、できうるならば日々これを涵養すべきものである。
それまで美しいと思えなかったものが、時を経た時に美しいと思えることもあろうし、その反対もまた然り、そして桜の如き刹那の美は日本人の普遍的な美的感覚として広く人々の心に沈殿しているのである。

軽薄で腰が軽い私は、京都市中にいる間あちこちに出入りさせてもらっている。
ホームレスのホームにお邪魔する事もあれば、然るべき名のあるお宅にお邪魔する事もある。人それぞれに物語があり、悲哀があり、歓喜があり、それは人の貴賤に類する事ではない。身の置き場所がどうあれ人の人たり得る事にいかような差などないのだ。
時折、面白いばあちゃんのお宅に伺う事がある。
ばあちゃんは華道の世界ではなかなかの名であるらしいのだが、私は華道の徒ではないから、ただのばあちゃんで良い。御本人もそれで良いと言うからお墨付きなのである。
「あ、おばあちゃんおいでですか?」
と、お宅に訪問するとお弟子さんは嫌な顔をするけれど、そんな事は知った事ではない。
畳の数を数えるのも面倒臭くなる大広間に通されるとさすがに華道の人らしく、しかし控え目に花々が生けてある。
ばあちゃんが現れ、お茶を煎れてもろて、私が持参した薯蕷饅頭とハッピーターンを二人してパクつく
、ここで私がかねてより疑問に思っていた事をばあちゃんに問うてみた
「なあ、ばあちゃん、役目が終わったお花てどうするんや、捨ててしまうんか?」
「ああ、それな、ちょっと来てみ」
と、ばあちゃんに案内される。奥の間の襖を開けたら枕が二つと派手な布団が敷いてあったらどうしよ……
などと不安になるが、男カタシ、ここは覚悟を決めねばならない。
私の家より広い裏庭に案内されると、その一画だけ不規則に盛り上がる小さな山々がある。
「花塚いいましてな、うちがそう名付けましたんえ、言うたら花のお墓なんえ」
ばあちゃんの職業柄、膨大な数の花がそこに埋められているのであろう。ばあちゃんは花を捨ててしまうのに忍びなく、はなづかを作り、それを埋め、生活の糧とも言うべき花々へ日々の感謝と敬意を込めて花を土に還しているのだ。
生花として飾られている間が刹那の美ならば、この花塚は永遠の美である。ばあちゃんの眼に、この裏庭はお花畑として見えているに違いない。
達人はやはり違う、ただのハッピーターン好きのばあちゃんではないのだ。

美しさが永続的に続くのは素晴らしい、そしてその時々に美を見出すのも人の美に対する素養として欠くべからざる事に思う。
年月を経てきたものだけが醸す美はやはり日本人をして琴線に触れるものがあるし、それを美しいと思える自分でありたいものだ。
ばあちゃんは美しい。年月を草花に捧げ、自身が辿り着いた境地を慈しみ、愛で、更に美の深淵を目指そうとする姿は人として美しい。
アンチエイジングも素晴らしい、だか、このような美しさもあるのだ。人はその年代ごとの美しさがあり、それはその人の矜持により更に輝きを増す。
それを見出すのも人の美意識であるし、年齢を重ねるとは刹那の美を何重にも重ねる事に他ならない。
春の桜を幾重にも幾重にも重ねたような、そんな人になりたいものである。

家族の為に働いてきた人は美しい、家族を思いその世話をしてきた人は美しい。
そしてそれらを美しいと思える人は美しいのだ。


今夜はお父さんにおかずを更に一品
お母さんには花束を
相手を慮るところに美しさは生まれる
照れくさがってはいけない
大切な人へ感謝と好意を常に伝えられる人は美しいのだ



さて、今日の講義はこれでおしまい
またね