挑み続ける人、闘う人が好きだ。
戦争が好きだと言っているのではない。もとより闘争心に欠ける人間だと自負しているし、幼い頃より勝ち負けを物事の基準に生き方の基準を置いた事はない。
だからおまえはダメなのだ。と人々は口にするけれど、私に言わせれば、だからおまえらはダメなのだ。となる。形而下の、人生の勝ち負けなど人それぞれなのであるから、普遍的な人生の勝ち負けを求める事そのものが無意味なのである。

私が好ましいと思う、挑み続ける、闘う人とは、自らではどうしようもない「さだめ」に抗い、闘い、僅かな光明を見出そうとする人々を言う。
病と闘う人、それを支える人、謂れのない差別を受ける人、両親の双方か何れかが阿呆なばかりに自ら抱えなくてもいい影を宿してしまった子、そして敗北を知りながらお母さんに小さな抵抗を試みるお父さん。
私自身が闘争心の欠片もない男であるばかりに、こうした人々に対してある種の憧憬のようなものが存在するのだ。
同情ではない、その人にふりかかった不幸や状況に対する物見遊山でもない、その人自身が闘っている事を意識するしないに拘らず、醇乎とした高い精神性と人間性と、それでも自分らしく生きようとする、言わば人の可憐に心が揺り動くのである。
闘う人々に心を奪われるのは、私が軟弱で軽薄で付和雷同的で、刹那的な人間であるからで、まさに自らにないものねだりであるのかと思う。

街にいる間、私は片親家庭の子供たち、或いは子供食堂の子供たちに英語と国語の講師をしている。
予め申しておくが、これは私が善人であるからではない。
むしろ善人ではないから、善人たるべきを思いこのような事をするのだし、加えて前述のような理由がある。あの子たちは自身で意識していないが、毎日を闘っているのだ。
以前に封建制度の職業について書いたけれど、私と関わり合うこの子たちの数人は自らに責のない事で本来あるべき機会を失い、時として意欲がありながらより高い水準の学びから遠ざけられている。
それが結果に於いて彼らのこれからに蓋をし、封建制度のような職業の固定化に近い現象が起こり始めている。意欲があっても選択肢を奪われるのだ。

受験勉強・資格勉強、これらは何かを得る為の勉強で、これは言わば人生の果実を得る為の勉強で、悪い事ではないが、本来の人の知的欲求から派生する勉強とは根本的に性質を異にするし、受験勉強に特化すればするほど難関合格に向けたテクニック論に終始し、本来の知的欲求とはますますかけ離れて行く皮肉が起こる。
純粋な勉強とは、即ちそれが直接的に金に結びつくようなものではないのだ。
私が子供たちに教えるのは受験テクニックではない。結果に於いて私の勉強が受験に役立てば良いとは思うが、私が講ずるのは受験テクニックではなく教養である。
私は常々、美しい日本語と英語の両立を「門下生」に説く。日本に育ちさえすれば美しい日本語が話せるようになる訳ではなく、今や美しい日本語は修得言語である。
学ぶ気持ちがなければ美しい日本語は一生涯話せないのだ。
加えて、日本語の英語化が著しい。
対策として門下生には俗語隠語で「ヤバい」と表現するところは相応しい日本語で、おいしい、まずい、あぶない、楽しい、いけない、良い、などと表現させているし、また「シェアしようよ」などと言う際も対訳としての日本語【共有、負担、分担、分配する、分かち合う、分け前、割り当て、取り分】などを教養として知っていてもらう。
シェアしようよ、を使うのは問題なくても、日本語は知っておいて貰うのだ。
数々の状況を一つの語彙で言い表せる英語は大変完成されているが、日本語でこれをやれば相当数の語彙が失われる事となる。しかも英語そのものが会話に入るようになれば、それは日本語とは言い難い。
コンプライアンス、エビデンス、イニシアティブ
これらを普段使う人は対訳の日本語を言えるだろうか。また言えるのならばわざわざ何故英語で言うのであろう。
言葉は生き物で、例えば100年前に書かれた本であっても英語であれば何とか読めもするが、日本語で書かれたものはそれなりの教養がないと読むのに難渋する、100年より少し前ではあるものの森鴎外のあの格調高い文章をきちんと読める日本人が幾人いるだろうか。
変化しにくい点では英語はより言語として完成されていると言えるだろうし、何より単純無比である上に日本語に比して語彙数が少ない。
それが故に世界の共通語となり得るのである。
私は、俗な日本語しか話せない人が、言葉は生き物だから、と言ってのけるのは綺麗な日本語を学ばない事に対する自身への言い訳にしか聞こえない。
言葉は生き物だから美しい日本語も話せます、が正しいのではないか。

こう言っては何だが、私の門下生たちは教師たちより綺麗で的確な日本語とある程度の英語力を以て学校から評価されているし、成績も私の担当教科では概ね良好である。
月間数万円の受験塾の生徒より遥かに教養高い、この子供食堂の我が門下生達を見て私は日々目を細めている。シングルママたちからの夕食の誘いも、これをビジネスにするべきであると言う友人の提言も、それに応じてしまっては私はただの下衆下郎である。
門下生たちは、ともすれば荒みがちな生活状況にある。だが、それを学ばない事の言い訳にして欲しくはない。
こうなっても仕方がないけれど、そうならない人間に私は人の輝きと崇高さを見る。年齢は問題ではない。
そうならない人間になる為に私のような人間の役割は大きい。見習えと言うのでなく、良くも悪くも私から学習して貰いたいのだ。
どうせ、ではない。仮に今の世がどうせであったとしても、どうせを変える力が若さにはあるのだ。

闘わない、闘えない、軟弱な男が子供たちに責任のない境涯に抗う事の意味を教える。
矛盾と自己満足と自己欺瞞に満ちているけれど、私から何事かを得てくれたならそれで良い。

子供と食事を共にすると毎回言われる事がある

「カタシせんせい、ニンジン食べなあかんよ」


私は頭をうなだれる。

大事な事を日々教えて貰っているのは

私の方なのだ。