薫る五月の筈なのに、ちっとも風は薫らない。
淀んだ大気の間を縫うように一陣の風が渡っても、それは渇きを誘う熱風である。
亜熱帯化した日本本土と言われて久しいけれど、我が京都にトロピカルは似合わない。いや、もちろんトロピカルが悪いのではなく、相性と言うものがある。
年中行事を重んじ、毎年衣替えの6月1日まで何とか暑さを耐え忍び、痩せ我慢をし続けた私も今年は早くも音を上げて衣の全てを半袖に統一し、着物も絽や紗の単衣と夏羽織に替えてしまった。
普段着は白いダボシャツとダボズボンに雪駄、わりとよくテキ屋と間違われて愉快だ。

中学生時代、横井庄一軍曹のグァム島に於ける潜伏サバイバル生活のレポートを読んだ事があり、その中に「パンの木の実」なるものが出てきて大変な興味を持った覚えがある。
「パンの木とは何やろか、もしかしたら枝に4枚切りやら6枚切り、或いはブリオッシュみたいなんが成るんやろか」
阿呆の子の想像力などこの辺りが限界である。どうしても知りたかった私は翌日図書館に赴き植物大図鑑なるものでパンの木を調べてみた。
すると、確かにパンの木は存在していた。熱帯に生える木で熟したその実に熱を入れるとパンのような香りと風味があるところから英語名でBreadfruit tree と名付けられた、とある。
グァム島の、横井庄一軍曹の、謎が解けてある種の安心を得た私は、頭の景色で満足し、それ以上にパンの木との関係を深めようとはせず、ついにパンの木の実を食べる機会に恵まれなかった。

ところが、ここに来て毎年の猛暑である。
これは上手くすると日本本土で、この京都でパンの木が栽培できるのと違うか、などと思い始めたのだ、いや、山中に勝手に植えたりしたらそれこそトロピカル山になる可能性があるので、個人的に栽培できないかとネット検索すると苗が売りに出ているではないか。
あ、待てよ…短慮と衝動で私は幾度失敗して来た事か、ここは分別盛りである、冷静になってもう一度調べてみよう。
と考えて調べると、怖ろしい事が記載してある。
曰く、適正栽培下での結実年数は4年〜8年、そして、この世界で最も収穫量の多い食用樹で一年で数百個の実をつける事もあるという…
こ、これはあかん。うっかり植えて、うっかり育ってしもたら大変な事になる、数百の実はあかんやろ、踏み止まって良かった、神様仏様、カタシに思慮を授けて頂き感謝しております。危うく地域の迷惑おじさんになる所でした……
こうして夏のパン祭り計画は頓挫した。

更に詳しく調べるとパンの木はなかなか悲しい運命を辿ってきた事が分かる。
もともとポリネシア辺りが原産であったパンの木が現在、世界の熱帯のほとんどの地域にまで広がったのは、主食用の樹木として有用であっただけでなく、イギリス、フランス等の植民地の労働者、つまり奴隷用の食糧としても有用であるとの判断から、それぞれ熱帯植民地に大規模なプランテーションを作ったのが起源となっているらしい。
言葉は悪いが原書の通り約すと「奴隷の餌として世界中の熱帯にパンの木は広がった」と、ある。
ただし、これにはオチがあって、パンの木の実は奴隷達には不評で、プランテーションは放棄され、その後自生して各地に広まったらしい。
いつの時代も植民地にされる方はたまったものではないのだ。

翻り、日本本土の森に飛んで頂く。
日本の森の代表的な森の実りと言えば、クルミ、ドングリ、ギンナン、ナツメ、ヤマモモ、アケビ、カキ、クリ等であろうか。
このうち、よく知られるリスさんの貯蔵散布についてお話ししたい。
貯蔵散布とはリスさんがドングリやクルミをいずれ食べるつもりで樹上や地上に貯蔵して置いたのをうっかり忘れてしまった事により、放置された実から芽が出て、結果に於いてクルミや椎の木を増やして森を豊かにし樹の新陳代謝を図っている現象を言う。
リスさんうっかりにも程がある。しかし、そのうっかりが森を育てているとすれば、リスさんのうっかりは偉大なうっかりなのだ。
とあるレポートによれば、リスさんが貯蔵した木の実の総数からネズミなどに盗まれた残りの10%強が忘れられるのだと言う。
せっかく取ってきた木の実をネズミに盗られて、その上1割も忘れてしまうなんて、リスさんてば、かなりのおっちょこちょい。愛すべき森のおっちょこちょい野郎だ。

そして更に翻り、カタシ宅である。
じつは昨夜、発見があった。
冷蔵庫の最深部に無惨に横たわるシュークリームが2つ。悲しい骸を晒している。
これは以前、私がいずれ食べるつもりで冷蔵庫に入れ、その後うっかり忘れてしまったものだ。
リスさんは忘れて森を肥やし、カタシは忘れて廃棄物を作った。
おっちょこちょいとはどちらを言うのか、私は冷蔵庫の前で頭を抱える。
このシュークリームを鉢に植えてもシュークリームの木になるとは思えない、なったらどんなに素晴らしいか……
夏のパン祭りに挫折した私に更なる追い打ちをかけるシュークリーム。

私の苦悩は続くのだ。


では、今日の講義はこれでおしまい
ふふ