豆腐屋さんがある街は良い街であると言う。そしてなろうことならばその豆腐屋さんが小売中心の商いならば尚更良いと言う。
皆様も良くご存知のように、豆腐は豆乳を凝固させて出来上がる。この凝固を何によってさせるのかが肝要で、天然のにがりか塩化マグネシウムを使う場合とそうでない場合とでは豆乳量に3倍〜6倍の差がある。つまり、天然にがりか塩化マグネシウム以外を使って固めた豆腐は豆乳が3倍〜6倍薄いのである。
このような豆腐は安価であるものの豆の風味旨味甘味に乏しく、実際としては白い四角い豆水の塊である。もちろんこれは両者を比較し食べてみたら誰にでも分かる事で、何よりこの私の貧乏舌ですら察知可能なのであるから、一般の人々には言わずもがなである。
このように、豆腐は製造者が手を抜こうとすればいくらでも手を抜けるし、しかも単価は高くはない。
真っ当な仕事をして適正な価格で売る、それを承知して客は買いに来る、そして単価が安いから数をこなさねば利ざやは出ない、継続して来店する街の客と正直な商いをする豆腐屋さん。この関係を築いている街は良い街であると言う論法である。
もちろんこれは小売客を相手にした場合の事で、大口の、例えば学校給食であるとか、病院食などへの納入は即コストの問題が発生するし、残念で皮肉な事ではあるけれど真っ当な豆腐を作っていては商いとして破綻をきたすのである。

水の良さと豊富さと、或いは寺院の需要とが相まって京都には豆腐屋さんが多い。ただ、小売中心の商いとなれば自ずから数は限られる。
幸いと言うか私の自宅のほど近くにはそんな真っ当な豆腐屋さんがあり、私は夕方近くになると鍋を手にその店に向かうのだ。
例によって豆腐界にも木綿か絹ごしかと言う大命題があり、それは私のような豆腐好きを過去永々と悩ませ続けている問題なのだけれど、私としてはこの数年、木綿豆腐に落ち着いている。
いや、絹ごし豆腐に非があろう筈はない、白く艷やかで滑らかで芳醇鮮烈極まるその肌に私は夢中であるのだが、木綿豆腐の素朴と滋味に今は心が向いているのだ、待っていて欲しい、必ず君の元に戻るからね、私は心でいつもそう侘びている。
空鍋を持って行く道すがらは頭に被ってセツコごっこと言うシュールな遊びもできるのだけれど、これは豆腐屋のお母さんに
「背が縮むで、カタシちゃん」
とたしなめられた。
お母さんは心得たもので、私が何も言わずとも木綿豆腐を一丁と、三回おきにひろうすを二個紙に包んでくれる。
ひろうすとはいわゆるがんもどきの事で、ここのひろうすはとにかく具沢山、銀杏、キクラゲ、ひじき、ユリ根、そして私が苦手とするニンジンが入っている。
「お母ちゃん、ニンジンは入れなくてもええのと違うか?」
と恨みがましく言うと
「小さい子やないんやから、何を言うてるの」
と怒られる。ニンジンとの不仲は幼少からのものであるから、今更関係の修復などおぼつかないのだ。

これからの季節は冷奴が美味しい。
ミョウガや大葉など夏の薬味を添えて、そこにお醤油を一たらし、或いは冷たいお出汁でも良いし、更にはお塩でも良い。
大切なのは豆腐の風味を損なわないようにする事で、お醤油もじゃぶじゃぶかけてはせっかくの良い豆腐が台無しになってしまう、調味料は必要最小限に留めるのが良い豆腐に対する作法と言うものである。
さて、冷奴が夏の豆腐ならば、冬の豆腐は湯豆腐である。
これをご覧になっている方だけにこっそりお教えするのだが、京都人はまず湯豆腐を外では食べない。
あれは家庭料理であって、外でしかも数千円も支払って食べるのは慮外の事である。
いや、営業妨害をしたいのではなくて、たいていの京都人にとって湯豆腐とはそう言う属性のものである。

お肉屋さん、お魚屋さん、惣菜屋さん、そして豆腐やさん、もちろん量販店も悪くないけれど、自分の街で行きつけの○○屋さんがあるのは少しだけ豊かな感じがするものだ。
見知った店員さんがいて、こちらから何も言わずとも見知った対応をしてくれる、他愛のない会話とやり取りとありがとうの笑顔が心地よい。
人が街を作り、街が人を作る、殺伐とした人とのやり取りばかりの中で、そんな自分の街を見つけられたら最高の贅沢であると私は思う。

豆腐屋のお母ちゃんに頼んで
ニンジン抜きのカタシスペシャルひろうすを作って貰えまいか
母の日に、お母ちゃんが好きな三山ひろしのCDでもプレゼントしよう

断じてこれは賄賂ではない
かわゆいお願いなのである……

たぶん。