京都の街に帰って来た。
帰った、とは何であろうか。家があり、慣れた街並みがあり、見知った人々がおり、そして待っている人がいる。
私のような根無し草にとっては山里も京都の街も帰る場所であり、同時に行く場所である。
定まりのない身はどちらにあってもその地の生活者であり、訪問者なのだ。

当然ながら街にはまた、山里とは違う街ならではの様々がある。そしてその様々に出会った時の人々の反応を検証し考察するのが私の密かな愉しみとなっている。
街は絶対的な人の分母が大きい故を以て検証する愉しみも尽きないし、また場所を違えた地域的な対応の違いも面白い。

例えば
非日常的な姿形をした人が、自分の生活範疇に入って来たとする。
この時のそれを見た人の対応としては以下のようなものが考えられる
一、その姿に興味を覚えて件の人に話しかけてみる
一、見て見ぬふりをして関わりにならないようにする
一、不審者がいると警察を呼ぶ
おそらくは、見て見ぬふりをして自分とは関わり合いにならないようにするのを多数、話しかけたり、警察を呼ぶを人を両極の絶対少数として、統計学で言うところのベルカーブ、いわゆる正規分布を描くのではないかと思われる。
無論、非日常と言ってもその地域と人々に害意がない事を見て取れる事が条件であって、刃物を持った見知らぬ人間がうろうろしていれは、即警察を呼ぶのが標準的な対応であるのは言うまでもない。

自分の街に見知らぬ異分子が入り込んできた、一見した所では害意は見られない。
見過ごすか、面白がるか、警察を呼ぶか

好奇心と警戒心、この相反する要素が人の心にあり、また好奇心が人の生活を豊かなものにし、警戒心が身に迫る危険からこれを遠ざける。
好奇心が強すぎるが為に怪我をする人もあれば、警戒心が強すぎる為に人生の彩りを無くす人もいるのだ。

少々話が変わるがナマコである。
味自体はさほどでもないが、コリコリ食感が心地よい海の幸である。ただし姿形はあの通りビューティフルと言いかねる。
私は常々あれを世界で最初に食べようと思った人はどんな人であったろうかと思う。
飢えがあったかも知れない、止むに止まれぬ事情があったかも知れない、ただ言えるのは非常に好奇心が強い人ではなかったかと、そんな気がするのだ。
最初に食べた人がいる、その食材が毒でない事が分かる、そしてそれを警戒心が強い人も食べ始める。
食材に限るまい、人々は常に好奇心の強い人が切り開いた道の安全を確認した上で渡って行く。
もちろん、食材の毒に当たって死んでいった好奇心が強い人も数知れない。
北陸やら、佐渡の一部で食されているフグの卵巣の糠漬けなどは、どのようにしたらフグの毒が抜けるかを試行錯誤した挙げ句の産物である。
中には漬け込む年月が足りずに、命を落とした人も出たであろう、しかもこの製法を編み出したのは化学者ではなく、一般の漁民である。テトロドトキシンなどいう毒物が発見されるのは更に時代が下った西洋に於いてである。
にも、関わらず人々は何とかフグの卵巣を食べられるよう工夫した。冬場の食料として貴重であったと言うだけでなく、そこには果てない好奇心があったのではないかと私は思いたい。

今から50年ほど前らしい
当時、京都市内で画廊を経営していた私の親戚の元に足繁く通う、化粧をして、時に女装して現れるおじいちゃんがいたらしい。
当時の事とて、街行く人々は白眼を以て彼を見たし、時には警察を呼ぶ人すらあったと聞いている。
そのおじいちゃんの名を甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)と言う。最近ではあちこちで展覧会が開かれる今再び脚光を浴びる画家である。
奇矯な出で立ちの人を見ると人は警戒をする。が、しばらくすると、おやっ、と思う事もある。この、おやっ、が大切なのではないか。
奇矯なものを、自分たちと成り立ちが違うものを、排斥する人が多い街より、それを興味を持って迎える街が私には住み心地が良い街に思える。

昔々、大昔、宗峰妙超と言う人は20年にも渡り、こつじき行を行い、その後大徳寺を開山し、またその大徳寺から出た一休宗純は異様な風体で辻辻を渡り歩いた。
姿形が問題なのではない、その背景を読み取る力が、読み取ろうとする力を、好奇心と言うのではないか。
警戒心を持つ事は非常に有益である、しかし警戒心が強すぎるばかりに人生の豊かさの妙帯を失うとすれば、なんと虚しい事か。
人を理解しようと思わない者に好奇心は宿らないのだ。

山里にあるとき
区長のやつがウシガエルの透明な管状になった卵を見て
「あれ、なんとか食用にできひんかな、タピオカミルクとか、ところてんみたいにできひんか」
などと言っていた。区長などが思わずとも過去には間違いなくウシガエルの卵を食べようとした人がいたに違いない。

が、私は区長の好奇心を止めはしない、私は臆病者で構わないから、区長のチャレンジだけを見たいのだ。

入院の手続きだけは進めておく