思索し、考える事を以て人は人たり得、否定し得ない絶対物としての自我を「我思う故に我あり」とデカルトは知の根幹を成すものとして規定した。
空想し、夢想し、想像し、時々妄想する私のそれらはすべて絵空事であっても、それらを思い描いている自らを否定しようがないのである。

山里には山に関する口碑伝説が少なくない。それは当然ながら山と里との関わりが密接であったから、と言うよりは里そのものが山の一部であったからに他ならない。
その根底を成すものは山や自然への畏怖であり、信仰であり、人々の増長や傲慢に蓋をするものとして存在し続けて来た。山々は人が挑みかかるような事をすれば、たちどころに災禍を為すものとして、いわば緑のバベルの塔として里人の元にあり続けた。
何度も登場する、この山里の区長は
「森には小人おんねん」
と、突拍子もない事を言って私を困らせる。奥様はついに「その時」の予感を思い、悲しい顔をし、とみちゃんは、また始まった、と辟易した様子である。
区長によれば、ほぼ毎日のように山に分け入っていると時折不思議な事が起こると言う。
前日、目印のつもりで置いておいた石の方向や場所が変わっている、山中のお社の供物が無くなっている、或いは御神酒が減っている、山中で木々のざわめきに混じって人の声がする。
これらは皆、山の小人の仕業だと区長は熱っぽく語る。
「山の小人て、どんなんやねんな?」
と私が区長に問うと
「いや、オレは見たことないけどな、オレの親父が何度か見てるわ、手のひらくらいの大きさの人間と同じ姿形や」
「そしたら、ちっこいおっさんて事か?」
「うーん、まぁそうかな…」
とみちゃんは既に呆れ顔でスマホをいらっている、奥様は寝室に入っていった。
「ちっこいおっさん、服とかどうしてるんや?」
「村人と同じようなもん着てるんやろな」
「そんなもん、どこで売ってるんや森のユニクロやシマムラとかか?」
「そんなんオレ知らんわ、カタシちゃん見てきたらええやんか」
区長を困らせるのは楽しい、ただ区長やその父親、更にその以前から村に住み続けた人々には山に対する畏れと敬いがある。
里人の心には、山を粗末に粗略にすると災いが降りかかる、という論法で沁み入っているのだ。
これは結果に於いて現代のエコであるとか、SDGsの発想と符合している。これを絶対是、唯一無二の善行として個人の指標とする気はないけれど、少なくとも自然を畏れ敬う心の有り様として里人を見習う必要が現代人には必要であろう。
ちっこいおっさんの存在は分からない、ただそれを信じる人々にちっこいおっさんは存在する。
そう、信じ想像する人々の存在は否定しようがないではないか。
コビト・モリニ・スム
コギト・エルゴ・スム
なのである。

では今日の講義はこれでおしまい。