なぜ山に登るのか問われたジョージ・マロリーは
「そこに山があるから」
と答えた。
爾来、悲劇的な最後を遂げたジョージ・マロリーの偉業と情熱と共に、山に登る人々の至言として、或いは哲学性を帯びて、この言葉は生き続けている。斯く言う私もこのところ低い可愛らしい山ばかりを登っているのだが、同じようになぜ山に登るのか、と問われたなら私は
「腹に肉があるから」
と答える。お腹にちょっぴりついた脂にかける情熱は些かもジョージ・マロリーに劣るものではないと自負している。
尤も件のジョージ・マロリーの言葉は世紀の誤訳として知られていて実際にはエレベストがあるから、と言った程度の意味で、哲学的な、人生論的なものを指したものではないと言う。
知識は時に残酷で野暮なものである。虹を見て
「お空にかかった七色の橋だ」
と喜ぶお子ちゃまを相手にあれは光のプリズム現象で七色に見えるのは光の屈折率が……云々と大真面目に声高に語るのは野暮の極みと言うものである。
知っていて騙されたふりができる人を粋な人と言うけれど、科学と言う学問は人を粋にも野暮にも導くらしい。科学を学ぶ人々はどこまでも理性で彩られた粋な詩人であって欲しいと思う。
 さて、かわゆい低山ばかりを登る私、極度の高所恐怖症である上に昨今のトレッキングブームに乗ったと思われるのが癪に触る、なるべくならば大袈裟にしたくないし、第一に私の主たる目的は脂である。
かと言って殺風景なジムに通って黙々と器具を相手に勤しむのは全く性に合わない、それが故の低山なのだが、これはこれでなかなか侮れない、一端登山道を外れれば危険な所は数知れないし、石や岩に足を取られて転倒する事もしばしばである。高い低いに関わらず、自然に危険が散在する事を身を以て体験し、また学習するのだ。
 学歴がない事を恥じる必要はないけれど、学ぶ意欲がない事は恥じねばならない。所詮人の世界は阿呆の松竹梅があるだけで真に賢い人など皆無である。私のような阿呆が何とか日々を送れるのも、学ぶ意欲を失わなかったからだと思いたい。それは市中にあっても山中にあっても同様で、山の植生を知り、草花の名を知り、時に出くわす動物さんに逃げられ、さらに稀に自ら逃げ、夏や秋の日には得体の知れないキノコを目にし、ここは古くから伝わるセオリー通りに木の棒でつんつんしてみたり、持ち帰って悪友に食べさせたろかと思案したり、万が一にも松茸長者になってしもうたらどうしようかと欲しい物リストを考えてもみたりと、私の山の哲学と算盤勘定がそこにあるのだ。
 低山の場合、そしてその山が住宅街に迫っている場合、山中に人の生活の欠片が伝わって来る事がよくある。夏のある日、登山道に面した深い沢から、ふと鰻の蒲焼のにおいがした。風に乗って流された空気がそのまま沢に滞留したものか、ともかくもこの種のにおいはそのまま下界への誘惑となる、強い引力が働く。
この引力に打ち勝った時、私の修業は完遂するのだ。あ、記し忘れたが、私はこの低山登山を回峰行と呼んでいる。阿闍梨様には遠く及ばぬまでも形から入るのは大切である、煩悩にまみれた回峰行、私は件のこの沢に蒲焼沢と名付けた。
 山中で出会う人の営みのうち、もっとも心が安らぐのは、おそらく下校途中の小学生だろうか、リコーダーの音が聞こえる時がある。まだ拙い音色だし、ミスも多い、だけれど音を楽しむと言う根源がそこにはある。西に傾いだ陽を受けてオレンジに染まる木々の隙間から、小さな音楽家の演奏が伝わって来て、私はまことに佳い時間を過ごす事ができる。動機が脂肪との決別であったとしても、山には得るものが多い。
誤算があるとすれば、下界に降りれば誘惑は限りないという事だ。人は決して煩悩から逃れられないと知る事も学習なのである。
ああ蒲焼 食べたい。