ミケランジェロが彫り出したサン・ピエトロのピエタ、フィレンツェのダヴィデ像、量感豊かでその鬼気迫る描写力に息を飲む。
美しさの深淵により近づいたものは見る者の言葉を奪う、それは美と言うものが人の理屈や計算とは全く別の場所で屹立しているからに違いない。
AIが黄金比や構図バランス、人の美の好みを学習して絵画や彫刻を製作したとしても、人の熱情と指先には及ぶべくもないと、私はそう信じたい。
諸説あるものの、ミケランジェロは大理石を前にして『この中に美しいものが埋まっていて出してくれと叫んでいる、私はそれを彫り出すのだ』と言ったという。
美とは人の手が加わって完成するのではないか、私にはそんな気がするのだ。同じく、私の、体に、ちょっぴり脂肪がついている。脂肪の中にちょーイケメンが埋もれていて私はそれを彫り出すのだ。
明日から私は頑張るのだ。
世上、私が常々思う謎の微笑みがある。
モナ・リザ嬢ではなく、男性である。名はカーネルサンダース氏、言わずと知れたケンタッキーフライドチキンの創業者であり、今なお店頭に立ち続けるハードワーカーでもある。
そして風雨に晒されてもなお、サンダース氏は微笑みを絶やす事がない。あの微笑みは何に向け何を語りかけようとしているのか、なるほど店舗に出入りする人々へ向けられたものである事は間違いないとしても、私にはあの半笑いに特別なメッセージが、示唆が、教示が内包されている気がしてならないのだ。
さて、翻って学生時代、ケンタッキー州から留学生として来日したデイビッド君と仲良くなった。
デイビッド君はケンタッキー州のレキシントン出身、保守的な土地柄では珍しい熱心な民主党支持者でゆくゆくは政治に関わる仕事をするのだと息巻いていた。
そのデイビッド君が言うのには
「ケンタッキー州の州都の議会前にはカーネルサンダース氏の胸像があるのだ」
と。そして、と彼は続ける
「アメリカのケンタッキーフライドチキンには人形なんか置いてはいない、来日して本当にたまげたぜ」
と、のたまった。思えばペコちゃん、サトちゃん、ケロちゃん、日本の店先にはキャラクター人形が多い、が、それ自体がアメリカ式の宣伝方法だと思っていた私には目から鱗の話であった。デイビッド君は矢継ぎ早に私に疑問を投げかける
「なぜカーネルサンダースの人形が店先に置いてあるのか、何故なのだ」と。
答えに窮した私は
「あれはな、カラスやらスズメやらを避ける為に置いたあんねん、サンダース見たら鳥が身の危険を感じて逃げて行きよんねん」
と答えた。
彼はそれは本当か…と呟きながらもぼんやり納得し、キャンパスの研究棟へ消えて行き、若い私は国際親善を果たした達成感に満たされ、講義ではなくガールフレンドの元へ向かった。
爾来、デイビッド君との親交は続いたが、サンダース氏の話題は出る事はなかった。
年月が経った。三条大橋の下をたくさんの水が流れ、橋上をたくさんの人が往来し、やがてスターバックスができて、私は幾人ものガールフレンドにふられた。
ふと、デイビッド君に言ったでまかせを思いだす。政治を志していたデイビッド君、私のでまかせが何かをきっかけに国際問題になりはしないか、そんな不安が去来する。
もし、万が一にでもそのような事になったらどうしようか、不安の重さに耐えかねて、街に出て、店頭のカーネルサンダース氏に窮状を訴え、かつ問いかけてみても、彼は微笑むばかりである。
微笑みの意味は、やはりわからない。