小学生時分、友達同士で夜に集合し、地元の銭湯に行くのが流行った。
各自、たいてい家に風呂はあったが、夜に皆で集まるというのが重要で、中には家に風呂がない子もいたのだが、そのような事は瑣末な事に過ぎない。
むしろ毎晩銭湯に行ける境涯が羨ましくもあった。
集まるメンバーは総勢4名、お馴染みのS君、なぜだか年がら年中半ズボンのY君、小学生のくせに体を鍛えるのが趣味のK君、そして私である。
銭湯から最寄りのK君の家を集合場所として、私はS君と同道する。
S君は銭湯と聞いて昼休み過ぎから変に興奮し、もう何を考えているのかは手に取るように分かるのだが、敢えてそれには触れない。
触れれば良からぬ企みに加担させられる事は目に見えているのだ。
興奮を隠しきれないその様子に、何かしら動物的な生臭さを感じて私はK君は宅への道を急ぐ。

K君は牛乳の配達業を営んでいる。時にはK君も早起きして家業を手伝っているらしい。
体を鍛えているのもそれと無縁ではないかも知れない。
うず高く積まれた牛乳瓶を入れたプラスティックの箱を見てぼんやりと納得をする。皆がそれぞれ家の事情やら、課せられたものやら、教室の彼らとはまた違った、より濃密な生活臭を伴っているのが夜のクラスメートである。
特にK君は労働と言う大人の世界に足を踏み入れているにも関わらず、教室にいる時にはそれを一切おくびにも出さない、むしろ話すまでもない当たり前の事として自らに消化している様でもあり、こうして彼の労働の現場としての道具やら、商品やらを間近に見ると、教室での彼は彼のほんの一部にしか過ぎない事を切々と理解させられる。
そんな私の思いとは裏腹にS君は背後で鼻息を荒げ、ゲートに導かれた競走馬のように興奮している。
もちろん、これが彼の全てであるのは言うまでもない。放し飼いにするのが一番である。
やがて半ズボンのY君がやって来た。例によって半ズボン、約束の時間にも遅刻している。
彼はなせか南の国のリズムで動く子なのだ。分かっている事であるから気にしてはならない。

夜であるせいも皆の軽装ぶりからも教室とは何かしら勝手が違い、S君以外は奇妙な緊張にとらわれて言葉少なにそぞろ歩き、目指す銭湯に到着する。
ここで銭湯に足繁く通うK君が言う
「この時間やと、頭に傷のあるじいちゃんおんねん、ちょっと危ないじいちゃんやから気をつけなあかんで、風呂を水で埋めたりしたらしばかれんで、な」
「なんやねん、危ないて」
「いや、噂やねんけどな、じいちゃん戦争で頭に傷を受けてんや、怒るとめっちゃ怖ろしいらしいで、家に戦争でつかった銃とかあるらしいんや」
私たちを震撼させるK君、銭湯を温水プールくらいに思っていた私たちに文字通り冷や水を浴びせる。

気を取り直し、戸を開けるとそこには全ての男のロマン、番台が出現する、S君は興奮が最高潮に達し、祭りの時の部族みたいになって小刻みに飛び跳ねる。S君の何かが覚醒しているのだ。
脱衣所で服を脱ぎ、今となっては探すのも困難であろう筈の柳行李に脱いだ服を入れる。
常連の客は名前入りの専用柳行李があるのだが、K君はその苗字をカタカナで書かれた行李に服を無造作に入れ、私達が脱ぎ終わるのを待ち
「ええか、中の温度下がるから、さささと入るねんで」
と勢いよく浴場へ入る。ここまで来ると主導権は全てK君のもので、僕たちは指示されるままに後へ続く、湯けむりの中で最初に確認しなければならないのは、例のじいちゃんである。
いた!浴槽で目を細めるじいちゃん。
思ったより細身の体に坊主頭、僕たちを直視はしないものの間違いなく射程圏内に入れている。
そのテリトリーを犯す事があればじいちゃんは豹変するかも知れない。
客は他に数名、知らないおっちゃん達である。それぞれが皆慣れているようで、石鹸やらシャンプーやらの私物を持ち込んでいる。

僕たちはまず洗い場でよく体を洗い、しかるのち浴槽へと向かう、浴槽は3つ、大きな浴槽、これは下から泡がブクブク噴出している、真ん中が電気風呂、これは、得体が知れずとにかく怖ろしかった。そして一番端には薬湯、浴槽は1人用の浅めでやや仰向けになって入るようになっている、自然界ではあり得ないような蛍光イエローの湯、薬湯と言うだけあって草のようなものを入れた袋が浮きつ沈みつしている。
悪いくせに小心者のS君はじいちゃんを避け早々に薬湯に入った、毒々しい蛍光イエローに浮かぶ彼は薬草袋を腹に乗せている。
まるでミレイのオフィーリアみたいだ。
さすがにK君は慣れているだけあって躊躇なく大きな浴槽に入った。
ここは覚悟を決めてK君に続く。
Y君と共にウッと声を上げる、かなりの熱さではないか、銭湯王のK君は半笑いである。
そこでじいちゃんが声を上げた
「僕らそんな熱ないで、はよ入り」
絶対的な威厳と圧力を含んだその声に怯んで肩まで浸かる
「はは、熱いか、しゃあないな」
じいちゃんが初めての笑顔を見せた。思ったよりも普通のじいちゃんではないか。
「さてっ」
と立ち上がったじいちゃんは想像以上に痩せて、肋骨が浮き出ている。
これは明日にでも即身仏になれるレベルである。
じいちゃんが出たあと
「すごいな、ガリガリやで」
「傷跡、毛がなかったで」
「どこに住んではるんやろか」
などと言い合う。
じいちゃんがいなくなり、余裕ができて浴槽で軽く泳いだり、銭湯王K君の指導の元に電気風呂にチャレンジしたりする、K君は自分たちよりずっとお兄さんに見えた。
四人揃って浴場から出て、K君を見習いそれぞれの勇姿を大きな鏡に写しながら、互いに顔を見合わせ腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲む。


そんな他愛のない事が、今からは考えられない程に楽しく、良い思い出として胸に残っている。
印象的なのはK君の事で、教室ではあまり目立つ
存在ではなかった彼が、実に頼もしく、また大人びて見えた事だ。
彼は小学校卒業と共に北海道へ引っ越す事となるのだが、その直前まで彼は私達へその事を言わなかったし、もちろん引っ越す理由も語りはしなかった。
ただ酷く寂しそうな顔が今も思い出せる。
銭湯王とはそれっきり、あれから40年の時が流れ、
あの銭湯は今では月極の駐車場となっている。


偶然か否か、S君はその銭湯跡地の月極駐車場に枠を借りている。
彼の枠は元女湯の辺りと言いたいが、おそらく男湯の辺りである。

おしい。