民俗学と言うのは市井の人々、名もなき人々の生活一般を知る学問である。
現代に於いても当たり前の日常のいちいちを書き留める人は稀であろう。民俗学の資料の中心が、文書に拠るものでなく口碑伝説などに、より重きを置かれるのはこれが為である。
生活一般と言っても、その範疇は膨大なものであり、一口に民俗学と言ってもその内容は専門的に細分化される事となるが、同時に他の分野との繋がりを見出す俯瞰的な勘とセンスが要求されるのは歴史学一般と共通する所である。

現代人は歴史や先祖の営みについてある程度分かった気でいるが、実はたかだか100年遡っただけで、全く分からない事だらけなのである。
明治の西洋化や敗戦によるアメリカ文化の流入により、日本の従来的な文化に大きな途絶が起こった事は想像に難くない。
だがそれだけではなく、その影響は文化的な側面に留まる事なく、人の指針となるような倫理観までが西洋式に置き換えられた事は民俗学的に非常に大きな出来事であったように思う。
例えば男女混浴は蛮習とされ忌避されたし、夜這いの風習も戦後辺りで廃れた、草深い地での男色は公然の風習であったし、戦前辺りまでは旅芸人なるものが差別されながらも諸国を渡り歩いていた。
いや、それらが良いものであったと言うのではなく、その悉くがタブー視され、まるで無かったかのようにして扱われる事に対しこの学問の徒として些かの憤りを禁じ得ない。

さて、少し前、岡山県の圓殊院なる寺院に伝わる人魚のミイラにつき、科学的な調査が行われた。
人魚のミイラは民俗学的には広く知られていて、見世物の客寄せに使われたり、或いは家宝として旧家に伝わったものなどがある。
面白いのは、この人魚のミイラを作る専門の職人がいたらしく、人魚ミイラは中国などでも作られていたのであるが、その精巧さは日本製が群を抜いているらしい。
一番多いのは上半身は猿で下半身を鯉やイシモチ・グチなどの魚で繋ぎ合わせるたものであるが、その繋ぎ目の加工、紙や漆などを用いた工作精度の高さなど、メイドインジャパンが一番であるとの事である。
御先祖様はこの種の紛い物を作るのも、非凡な才を発揮したのである。
この岡山のミイラも特定には至らなかったものの、上半身は哺乳類、下半身はニベ科の魚類であるとの調査結果が出ている。
重要なのはここからで、科学的な結果が出たからと言って、これを哺乳類と魚類の干物として扱うのでなく、これまで通り人魚のミイラとして保管して欲しい。
全てを分かった上で、知った上で騙される姿勢は大切であろう。
フランソワ・ラブレーは
3つの醜い真実よりも1つの綺麗な嘘を、と言った。
知った上で騙されたふりをする人は粋である。或いは知りながら、それが悲しい現実であっても笑いに転化できる人は素敵な人である。
自らのメンタリティに合わないからと騒ぎ立て、存在すら否定するような人間にはなりたくないものだ。

人魚の肉を食べた者は不老不死になると言う。
だが、永く生きる事が必ずしも人の幸せになると限らない事を口碑は語る。
永く生きたが故に幾度も愛する者の死を見て、塗炭の苦しみを味わい、自ら命を絶つ事も叶わず、ただ生きながらえるだけの自分の定めを呪う。
そんな話がいくつかある。

じつは昨夜久しぶりに寿司を食べた

今のところ体に変化はない…