禅宗などでは父母未生以前本来の面目、などと言う。つまり、父母が生まれるより以前の自分、というほどの意味である。
無垢なものとしての命の流れとも言えるし、自分の命に関する必然性を指しているものとも思われ、更に言えば何百年も前から存在付けられた自分の必然性と言えなくもない。
延長すればライプニッツの提唱した予定調和論とモナドとに符号するのではないか。
現象に対する因果関係ばかりに目を奪われがちであるが、その底流には精神性を伴う見えざる手が予定調和として働いているのかも知れない。
つまり、父母が好き合った結果として自分が存在しているのも、何百年、何千年も前から定められた予定調和という名の産物かも知れない。
禅宗と言いライプニッツと言い、私のような凡人には及びもつかない途方も無いことを言うものだと改めて思う。

昭和の時代、お母さん達には高い精神性があった。
即ち、角を立たせない、波風を立たせない、お互いのやり取りである。
もちろん、ビジネスの世界であれ、お父さん同士の世界であれ、更には子供同士であってすら、己を主張し過ぎない。その場が丸く収まるならば、たとえ自分を曲げてでも波風を立てる種を残さないのが、円滑な社会生活を営む必須条件とされていたが、お母さん同士の、この予定調和ぶりはもはや至芸と言って良いレベルであった。
幼い頃の私はこの完成された劇の現場に幾度も立ち会っている。

盆暮れなどにお中元、お歳暮持参のお母さん、ひと通りの挨拶と他愛もない事を話したあと、愛想笑いの相好が崩れぬうちに、傍らの風呂敷にやおら手を伸ばす
「これ、ほんまに恥ずかしいものですねやけど…」
と、この辺りにセリフが来ればすかさず
「いやぁ、ほんまどうしましょ」
などと切り返す、この呼吸はリハーサルなしなのが信じ難い
「いやなあ、ほんまに恥ずかしい限りで……○△∅∑∃∌…」
などとセリフの最後をモゴモゴして語尾を分からないようにするのもベテランの技である、その間、風呂敷の結びをゆっくり確実に解いていく。
恥ずかしいもんと言ったわりには、恭しく相手のお母さんに正対するようモノを置いて、包装紙の店名も分かるようにし、おもむろに風呂敷を畳みつつ
「どうぞ…これ…」
と、品物と相手の中間に目配せし、相手のセリフを待つ
「いや、こないな結構なもん、奥様いけまへん、いけまへん」
すかさず
「いや、ほんまに大したものと違いますん、どうぞ」
そのセリフに乗っかるように
「いや、そやかて…どうしましょ」
この辺りの頃合いで止めのセリフが入る 
「いや、収めて頂かないと、主人に怒られます、お願いします、どうぞ」
ここで、やや呼吸を整え
「そ、そうですかぁ…ほならありがとうございます」
と、ここで初めてモノに手をかけ自らの傍らへ置く。
そしてその後一切品物の話をしないのが暗黙の了解なのである。

この予定調和の様式美。二人の女優の共演、削ぎ落としたセリフの中には本来数多の会話が交わされている筈なのだ。
不文律と角を立たせないと言うモナド。
二人の主演女優にライプニッツも悶絶であろう。
恐るべきは昭和の女優は誰から教えられるでもなく、いや、教わったのかも知れぬが、いきなりの本番でごく自然にこのやり取りと呼吸とを互いが体得している点に、いつもギャラリーとして参加した私は能の幽玄の世界を目の前で見た心持ちであった。

時代は変わった

「これな、めっちゃ美味しいねん、食べてな」
「うわっ めっちゃ嬉しい、ありがとうな」

これは良し悪しの話ではない

ただ女優はいなくなった…

あ、相手方に紙袋ごと渡す人がいるけれど
紙袋は本来風呂敷と同じであるから
紙袋から取り出して、中身をお渡しするのが正式であるとだけお伝えしておく…