四月の半ばにもならぬのにもう初夏の陽気である。
街から山里へ行った時にはまだ春の名残も鮮明であったのに、いざ帰ってみれば街はすっかり初夏の装いである。
たかだか十日間になにがあったのか、さしずめ私は浦島太郎氏の心持ちである。
この調子で気温が上がれば真夏には60度くらいになるのではないか、これは自然界の方から人間に対して環境適応を迫っているのではないか。いくらなんでも春が短すぎるし、この分では風薫る五月もへったくれもないではないか。
友人の幾人かは夏休みの間中、避暑の為に沖縄へ行くと言う。全くわけわからん。

こう早く季節が夏を急ぐと、私も二三急がねばならない事がある。
私が行きつけの食堂、その食堂の冬の名物メニュー鍋焼きうどんが終わってしまう。
鍋焼きうどんがラインナップから消える基準はおやっさんの調理服が半袖になった時である。
おやっさんの袖の長短でメニューのラインナップの変更がある。代表例として、IN冷やし中華 OUT鍋焼きうどんなのだ。
その日の夕方、17時30分の夜営業開始を目指し、ママチャリかたし号に跨がる、ママチャリなのに両足がべったり地面に着かないのはご愛嬌である。
もちろん努力義務であってもヘルメットは着用する。誇らしい二本線が入った、しかも京都市マークが中央に燦然と輝く現場用ヘルメットである。
京都市発注の公共工事の現場にはこのヘルメットさえあれば顔パスである。
何食わぬ顔で現場巡察したのち、もしかして帰りには山吹色のお菓子を貰えるかも知れない。
夢が詰まったヘルメット。入手先は聞かないで欲しい。

かれこれ三十年通い詰めた食堂。
ロンドンへ島流しに遭う前に、おやっさんにロンドン支店を出すように要請したのだが
「カタシちゃんしばくで」
と、にべもなかった。定食も麺類も丼ものも、全てがハイアベレージを叩き出す知られざる名店。
それであるにも関わらず、値段は良心的である。
学生が客の大半を占める為に値上げは最小限に止めている。
申し訳なさも手伝い、私はいつも何を食べても千円を置いてゆく、おやっさんとおかあさんにはお釣りで吉兆の懐石でも食べてもろたらええ。
コード決済もアメックスも使えないが、学生時代は図書券で食べさせて貰った事もあるし、ツケさえ効いた。
今は高級官僚となっている数人はツケを残したまま霞が関に旅立った。
いずれ私がおやっさんの名代として元金に利子を乗せた額を外務省と財務省に乗り込んで請求したろうと思う。
時効であるなどとぬかしたら、あのことを文春に言うよ、と言ったらええ。
平和的で穏便な解決は私の得意とする所である。

店内に入場する私
「ああ、カタシちゃん」
と、おかあさん。
厨房のおやっさん、おかあさん共に長袖である。
よし、まだいける。
「おかあちゃん、鍋焼き頼むわ」
私は安堵し、周りを見渡す。相変わらず学生と思しき客が多い、場所柄そのほとんどは私の後輩であろう。
「おやっさん、鍋焼きはまだ少しやらはるんか?
最近めっちゃ暑いやんな」
「そやなぁ四月一杯かなぁ」
おやっさんは柔和に笑う。この人の笑顔は昔とちっとも変わらない。
もう七十歳も近い筈なのだがカッコいい男である。
そうこうするうち
「はい、カタシちゃん、お待ちどうさん」
と、グツグツ沸騰する鍋がテーブルにやってきた。
これだ、この鍋焼きだ。
刻みお揚げさん、九条ねぎ、かまぼこの一切れ、軽く炙ったかしわ、中央に半熟の玉子、そして通い詰めた客のステータス、通常一本だが特別に二本の海老天。
前半に一本、そして後半に一本、半熟玉子は後半まで温存し、おつゆと玉子に絡めて食べるのがカタシ流である。
汗を額に滲ませ、花粉症とも新陳代謝ともつかぬ鼻水の細流を作りながら、半分ほど来た辺りで事故は起こった。
波間に浮かぶかまぼこを箸でつまもうとし、誤って玉子の黄身を突付いてしまったのである。
し、しまった…黄身ちゃん広がらないでおくれ…
しかし、願いは虚しく黄身はおつゆの中に黄金の帯をたなびかせている。
やんぬるかな、予定変更して二本目の海老天を黄身にくぐらせて応急処置とするが、すでにおつゆはポロロッカの時のアマゾン川のような色になっている。
しくじった私、なんとか完食したものの腑に落ちない点は残る。
仕方ない、四月一杯は何とか食べられそうだから、近々にまた食べるとしよう。
「ごちそうさま、ありがとう」
いつも通り千円を置く私、が、苦笑いするおかあさん
「カタシちゃん、あかんわ、そこ見てみい、ちょっと前から1100円やで」
絶句する私、千円札一枚しか持って来ていないではないか
「お、おかあちゃん、ちょっとツケといてえな、また今週来るし、頼むわ」
「うん、ええよ、でもいい大人やねんから財布ぐらい持ち歩かなあかんよ」
笑いながら私を送りだすおやっさんとおかあさん。
霞が関へ借金取り立てに行く前に私が借金を作ってしまった。

京都市マークのヘルメットが
頭にのしかかる…
そして春のまだ冷たい風が私を責めるのだ