最近、親との関係について考えることがあった。
昔から親とは仲が悪いわけではない。
でも、話しているとすごく疲れることがある。
なんで話が通じないんだろう。
なんで自分の考えが伝わらないんだろう。
そんなことを何度も思ってきた。
最初は、世代の違いだから仕方ないのかなと思っていた。
親が育ってきた時代と、自分が生きている時代では価値観が違う。
だから話が合わないのだと考えていた。
でも、よく考えると少し違った。
海外の人とは文化も価値観も全然違う。
それでも普通に会話はできる。
お互いの考えが違っても、「どうしてそう考えるの?」と聞き合い、理解しようとすることはできる。
では、なぜ親との会話はこんなにも疲れるのだろう。
今回の対話の中で、一番しっくりきた答えがあった。
それは、「コミュニケーションの前提そのものが違う」ということだった。
私が一番苦しかったのは、「理解してもらえないこと」だった。
正確に言うと、私が伝えたいことが、そのまま相手に届かない。
話を最後まで聞いて考えるというより、
「こういうことやろ?」
「つまりこういうことや。」
と、相手の中にあるストーリーで話が進んでしまうことが多い。
私としては、
「いや、そうじゃなくて…」
と思うことが何度もあった。
決めつけられているような感覚。
私自身の考えではなく、相手が想像した「私」と会話をしているような感覚だった。
さらに、親とのコミュニケーションで疲れる理由はもう一つある。
それは、「言うべきこと」と「言わなくてもいいこと」の感覚が違うことだ。
私は、相手のために必要なことなら、多少言いにくくても言うべきだと思っている。
一方で、ただ相手を傷つけたり、不快にさせたりするだけの言葉は、わざわざ言わなくてもいいと思っている。
でも親は、その線引きが自分とはかなり違う。
思ったことをそのまま言う。
本人に悪気はないのかもしれない。
むしろ、「家族だから」「親しい間柄だから」という愛情表現や、気を許している証拠なのかもしれない。
でも、私はそのコミュニケーションがどうしても苦手だった。
親からすると普通の会話でも、自分にとっては失礼に感じたり、無神経に感じたりすることがある。
ここで気づいたのは、親子だから分かり合えないのではなく、コミュニケーションの文化が違いすぎるのだということだった。
私は、相手の考えを聞きながら、一緒に考えるような対話をしたい。
でも親は、思ったことをそのまま言ったり、自分の経験や思い込みをもとに話すことが多い。
つまり、私が苦手なのは親そのものではない。
「対話にならないコミュニケーション」が苦手なのだと思う。
私は親を変えたいと思っていたのかもしれない。
もっと話を理解してほしい。
もっと柔軟に考えてほしい。
もっとこちらの考えを尊重してほしい。
でも、今回気づいた。
対話というのは、一人では成立しない。
相手にも、相手のコミュニケーションの癖や価値観がある。
もし相手が、自分の中のストーリーや経験にあてはめて話すタイプなら、こちらだけが対話を求め続けても疲れてしまう。
だから大切なのは、
「どうすれば親を変えられるか、理解してもらえるか」
ではなく、
「この人とは、どこまでなら気持ちよく話せるのか」
を知ることだった。
これは諦めではない。
相手を理解した上で、期待値を調整するということだ。
以前、仕事でも似たようなことを考えたことがある。
「これは自分の仕事じゃないと割り切ったら、少し楽になった。」
相手を変えることも同じなのかもしれない。
相手を対話できる人に変えることは、自分の仕事ではない。
自分にできるのは、自分の伝え方を考えること。
そして、どこまで関わるかを自分で決めること。
最近は、親を見る目も少し変わってきた。
親として見るのではなく、一人の人間として見る。
「この人は、こういう話し方をする人なんだな。」
「この人は、相手の話をそのまま受け取るより、自分の経験に当てはめて理解する人なんだな。」
そう思うと、少しだけ距離を取って見られるようになった。
相手を理解することは、相手に同意することではない。
親の言い方を好きにならなくてもいい。
無理に分かり合おうとしなくてもいい。
ただ、「この人はこういうコミュニケーションをする人なんだ」と知っておく。
それだけでも、少し楽になる。
対話できる人とは、思い切り対話する。
でも、対話になりにくい人には、必要以上のエネルギーを使わない。
それは冷たいことではなく、自分の心を守るための距離感なのだと思う。
親との関係が劇的に変わったわけではない。
たぶん、これからも話していて疲れることはあると思う。
でも、「親を変えよう」とするのをやめたことで、自分の気持ちはずいぶん楽になった。
親とのコミュニケーションで大切なのは、もっと分かり合うことだけではない。
無理なく付き合える距離感を見つけること。
それが今回、一番大きな気づきだった。