都々逸とは どどいつとは
〈都々逸節〉とも。〈都々逸〉(「都々一」「ドド一節」「どどいつ」などとも表記)は江戸後期にその体裁を整えていらい、現代においてなお命脈を保ち続けている俗曲である。
都々逸の形式はは二十六音、音数で七七七五を標準とする。この二十六音というのは和歌短歌の三十一音、俳句の十七音とは、また一味違った韻律上のまろやかさをそなえている。つまり①うたいやすく、②覚えやすく、③韻律が細やかで、④適度の間が取れて、⑤作りやすい、という歌謡詞作上の必要条件をすべて満たしているのだ。曲調は本調子を本線とし、ときには二上り・三下りの調子を見せる。即興・裸像た・崩し・安こいり・字あまり・新内調などなど、変性展開も多彩である。
都々逸の人気を支えているのは、男女の情愛表現であり、粋(すい)な心の披露目(ひろめ)であり、時には鋭い時局批判の精神である。大人向け万人の情歌、という位置づけでは歌謡曲を凌ぐものがあると思う。その人気は現代なお衰えず、派手さはないが各地に結社・吟詠会が設けられ、ときには酒席での座興を賑わしている。
都々逸は初め、慶安年中に出た弄斎節を根源とする、というのが定説化している。やがて常陸生まれの民謡「潮来(いたこ)節(ぶし)」を母体に、弄斎・潮来双方の形質を受け継ぎつつ西下した。途中、名古屋で地元の「名古屋節」と割りない仲になり、名古屋節の囃子(はやし)詞(ことば)「ドドイツドイドイ」から名付けられた、というのがもっぱらの説である。名古屋の熱田発祥説など異説もいくつか見えるが、どれもこじつけ色が濃く、信頼性の裏付けにも欠ける。
関西でしばし息ついた都々逸は、彼地で「好此(よしこの)」と呼ばれるようになったが、形態・内容ともすでに都々逸らしさをそなえていた。為永春水の『春色梅暦』は天保四年に刊行された人情本だが、そのなかに、
都々一は野暮でも遣り繰りや上手 今朝も七つ屋で誉められた
とあり、「どどいつ」の名は意外に早くから普及していたことがわかる。
ここで都々逸坊扇歌(一八〇四~一八五二)という都々逸節の開祖(開祖ではないとする説もある)である寄席音曲師を登場させよう。坊扇歌は若くして諸国を放浪し、浮世の辛酸を味わいつつ都々逸を広め国民芸能に引き上げた。美声でも鳴らした。頭の回転が速く機知に富み、謎なぞ解きの名人、あるいはトッチリトンの名手としての実績も残した人である。彼は放浪中の写生吟に託した名作、
白鷺が小首傾げて二の足踏んでやつれ姿の水鏡
を残し、開祖とはいえないまでも、中興の祖たる資格は十分備えている。

都々逸坊扇歌の石像〔茨城県常陸太田市〕
ときに、都々逸のうち古典に属するものは過半が作者未詳である。いたずらに売名を目的としない、庶民演歌の心意気が底に流れているからであろう。
なお細かいことだが、「都々逸」の表記では止めの句点(。)を省くのが慣例で、本書でもこれに準拠する。
《参考》
小寺玉晁筆
唄「おかめ買奴(カウヤツ)、天窓(アタマ)でしれる、油つけずの二ツ折 此唄のシマイのはやし 其奴(ソイツ)ハ殿(ドイ)奴者(ツジヤ)〳〵。
と或大一座の客の節、囃子けるが、大に興ありて笑(ヲカ)しかりければ、此唄謡(ウタフ)時には、必ず此囃子する事と成居しが、いつの程よりか殿々吃(どどともり)りて、ドヾイツドイ〳〵と成てより、浮世はさくさくと折返し囃子事とは成しと、翼楼老人の話にて、夫故誰名付るとはなくて、ドヾイツぶしとはいひ初しと也、其後とても色々と囃子は臨機応変にして、其壱つ弐つを爰にしるす、
──歌謡書、江戸後期成『どヾいつぶし根元集』
〈都々逸節〉とも。〈都々逸〉(「都々一」「ドド一節」「どどいつ」などとも表記)は江戸後期にその体裁を整えていらい、現代においてなお命脈を保ち続けている俗曲である。
都々逸の形式はは二十六音、音数で七七七五を標準とする。この二十六音というのは和歌短歌の三十一音、俳句の十七音とは、また一味違った韻律上のまろやかさをそなえている。つまり①うたいやすく、②覚えやすく、③韻律が細やかで、④適度の間が取れて、⑤作りやすい、という歌謡詞作上の必要条件をすべて満たしているのだ。曲調は本調子を本線とし、ときには二上り・三下りの調子を見せる。即興・裸像た・崩し・安こいり・字あまり・新内調などなど、変性展開も多彩である。
都々逸の人気を支えているのは、男女の情愛表現であり、粋(すい)な心の披露目(ひろめ)であり、時には鋭い時局批判の精神である。大人向け万人の情歌、という位置づけでは歌謡曲を凌ぐものがあると思う。その人気は現代なお衰えず、派手さはないが各地に結社・吟詠会が設けられ、ときには酒席での座興を賑わしている。
都々逸は初め、慶安年中に出た弄斎節を根源とする、というのが定説化している。やがて常陸生まれの民謡「潮来(いたこ)節(ぶし)」を母体に、弄斎・潮来双方の形質を受け継ぎつつ西下した。途中、名古屋で地元の「名古屋節」と割りない仲になり、名古屋節の囃子(はやし)詞(ことば)「ドドイツドイドイ」から名付けられた、というのがもっぱらの説である。名古屋の熱田発祥説など異説もいくつか見えるが、どれもこじつけ色が濃く、信頼性の裏付けにも欠ける。
関西でしばし息ついた都々逸は、彼地で「好此(よしこの)」と呼ばれるようになったが、形態・内容ともすでに都々逸らしさをそなえていた。為永春水の『春色梅暦』は天保四年に刊行された人情本だが、そのなかに、
都々一は野暮でも遣り繰りや上手 今朝も七つ屋で誉められた
とあり、「どどいつ」の名は意外に早くから普及していたことがわかる。
ここで都々逸坊扇歌(一八〇四~一八五二)という都々逸節の開祖(開祖ではないとする説もある)である寄席音曲師を登場させよう。坊扇歌は若くして諸国を放浪し、浮世の辛酸を味わいつつ都々逸を広め国民芸能に引き上げた。美声でも鳴らした。頭の回転が速く機知に富み、謎なぞ解きの名人、あるいはトッチリトンの名手としての実績も残した人である。彼は放浪中の写生吟に託した名作、
白鷺が小首傾げて二の足踏んでやつれ姿の水鏡
を残し、開祖とはいえないまでも、中興の祖たる資格は十分備えている。

都々逸坊扇歌の石像〔茨城県常陸太田市〕
ときに、都々逸のうち古典に属するものは過半が作者未詳である。いたずらに売名を目的としない、庶民演歌の心意気が底に流れているからであろう。
なお細かいことだが、「都々逸」の表記では止めの句点(。)を省くのが慣例で、本書でもこれに準拠する。
《参考》
小寺玉晁筆
唄「おかめ買奴(カウヤツ)、天窓(アタマ)でしれる、油つけずの二ツ折 此唄のシマイのはやし 其奴(ソイツ)ハ殿(ドイ)奴者(ツジヤ)〳〵。
と或大一座の客の節、囃子けるが、大に興ありて笑(ヲカ)しかりければ、此唄謡(ウタフ)時には、必ず此囃子する事と成居しが、いつの程よりか殿々吃(どどともり)りて、ドヾイツドイ〳〵と成てより、浮世はさくさくと折返し囃子事とは成しと、翼楼老人の話にて、夫故誰名付るとはなくて、ドヾイツぶしとはいひ初しと也、其後とても色々と囃子は臨機応変にして、其壱つ弐つを爰にしるす、
──歌謡書、江戸後期成『どヾいつぶし根元集』
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