不倫の行き着く先に
幸せはないのかもしれない。
この頃、
そう思っていた。
私が望むのは、
ケイタと別れて
罪悪感なく旦那と子どもとの生活を送ること
なのか、
妻や母という社会的な立場を捨てて
離婚して自由の身になること
なのか、
このままの状態でケイタと一緒にいること
なのか。
そんなことをもんもんと考える日々。
とうてい答えは出なかった。
考えるのが嫌になり、
家庭に支障がでてくるのを恐れて、
別れを切り出しても、
2、3日すると心が折れて元サヤに。
そして考えるのはやめて、
今を楽しもうと自分を言い聞かせる。
行き先のない
負のループに入っていった。
ひとつだけわかっていたのは、
子どもの笑顔はみていたい。
ということ。
ケイタと会うのは
子どもが帰ってくる時間まで。
それは最初から決めていたが、
小学校は終わるのが早くて、
ケイタと離れるときは名残惜しく、
だんだんと一緒に過ごす時間の短さに、
もの足りなさを感じるようになった。
けれど、
ランドセルをかついだ娘が
ニコニコと帰ってくる姿を見ると、
心から嬉しくて愛しい気持ちが湧いてくる。
子どもたちの笑顔で
私はいつも今日はいい日だったと思える。
これは、変わらなかった。
離婚をして親が片親になったり、
私が子どもを手放すことになっても、
子どもは時間をかけて
受け入れて前に進んでいく。
そう思っていたけど、
私が子どもと離れて笑顔でいられるのか。
そうしてまで、
恋する自分を優先する意味があるのか。
そこには自信がなかった。
恋心を疑うのは
ケイタの全てが好きかと言われると
そうじゃなかったから。
ケイタは私や職場の人には
無邪気に
ストレートに思いを伝えるのに、
奥さんや子どもには
本音を言わずに、
ただ関わらずに逃げているようにみえた。
私はそれがずっと気になっていた。
関係が近くなればなるほど、
向き合わずに逃げる人なのかなと、思った。
なのに言わない。
嫌な部分は極力見ずに、
自分の都合の良い現実だけを
探すようにして、
この関係を続けようとしていた。
旦那に対しても同じく。
ケイタや旦那に対してしてることは、
もちろん、
自分に対してしてることで…
私は、長年、
自分の嫌な部分をみるのが怖かった。
何年も自分と向き合ってきて、
嫌な部分を明らかにしてみても、
やっぱりそんな自分が悔しくて
認めきれなくて、
都合のいい部分を探して
どうにか自分を守ろうとしていた。