小川龍一です。こんにちは
「さくら」の語源
さくらの語源については、いくつかの説があります。
その一つに、古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだという説があります。
また、さくらの「さ」は穀霊(穀物の霊)を表す古語で、「くら」は神霊が鎮座する場所を意味し、「さ+くら」で、穀霊の集まる依代(よりしろ)を表すという説があります。
昔から、桜の開花が農作業の目安の一つになっていたことを思えば、いにしえの人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではありませんね。

さくらと日本人のかかわり
平安時代より前までは、野生の桜を鑑賞していました。
日本書紀(720年)には、神功皇后の時代にすでに鑑賞されていたことが書かれています。また、奈良の吉野山はすでに桜の名所となっており、持統天皇(686~697年)は花見のために何度も訪れました。

桜は万葉時代の歌にも詠まれていますが、その数は梅よりも少ないものでした。それは、梅を愛でる大陸の文化に貴族たちがあこがれていたためです。

平安時代(奈良時代との説も)に入って、野生の桜を都市部に移植して鑑賞するようになりました。
桜の花見の風習は、9世紀前半に嵯峨天皇が南殿に桜を植えて、宴を催したのが最初と言われています。その後、貴族から武士や大衆へ、そして都から地方へと広まっていきました。

桃山時代には、豊臣秀吉が吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催しました。花見の楽しみが一般に知られるようになり、大衆にも一層身近なものになりました。

江戸時代に入ると、3代将軍家光が上野に寛永寺を建てて吉野の桜を移植し、隅田川河畔にも桜を植えました。また、8代将軍吉宗が飛鳥山を桜の名所にしたことも有名です。花見はますます庶民に広がりました。
江戸時代の前半には、桜が一気に散る様が武士に嫌われたようですが、泰平の世に入り、歌舞伎の忠臣蔵で「花は桜木、人は武士」という台詞が使われたことで、武士の桜嫌いは消えていったとも言われます。
更に、江戸時代末期に世に出て、あっという間に全国に広まった染井吉野のおかげで、日本中に花見の風習が広く普及し、深く浸透していったと言えるでしょう。

一方、兵士は桜のように潔く散るべしとして、戦争中は軍国主義の道具として使われた悲しい歴史もありました。
小川龍一でした小川龍一です。こんにちは
「さくら」の語源
さくらの語源については、いくつかの説があります。
その一つに、古事記に登場する「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)のさくやが転化したものだという説があります。
また、さくらの「さ」は穀霊(穀物の霊)を表す古語で、「くら」は神霊が鎮座する場所を意味し、「さ+くら」で、穀霊の集まる依代(よりしろ)を表すという説があります。
昔から、桜の開花が農作業の目安の一つになっていたことを思えば、いにしえの人々が桜に実りの神が宿ると考えたとしても不思議ではありませんね。

さくらと日本人のかかわり
平安時代より前までは、野生の桜を鑑賞していました。
日本書紀(720年)には、神功皇后の時代にすでに鑑賞されていたことが書かれています。また、奈良の吉野山はすでに桜の名所となっており、持統天皇(686~697年)は花見のために何度も訪れました。

桜は万葉時代の歌にも詠まれていますが、その数は梅よりも少ないものでした。それは、梅を愛でる大陸の文化に貴族たちがあこがれていたためです。

平安時代(奈良時代との説も)に入って、野生の桜を都市部に移植して鑑賞するようになりました。
桜の花見の風習は、9世紀前半に嵯峨天皇が南殿に桜を植えて、宴を催したのが最初と言われています。その後、貴族から武士や大衆へ、そして都から地方へと広まっていきました。

桃山時代には、豊臣秀吉が吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催しました。花見の楽しみが一般に知られるようになり、大衆にも一層身近なものになりました。

江戸時代に入ると、3代将軍家光が上野に寛永寺を建てて吉野の桜を移植し、隅田川河畔にも桜を植えました。また、8代将軍吉宗が飛鳥山を桜の名所にしたことも有名です。花見はますます庶民に広がりました。
江戸時代の前半には、桜が一気に散る様が武士に嫌われたようですが、泰平の世に入り、歌舞伎の忠臣蔵で「花は桜木、人は武士」という台詞が使われたことで、武士の桜嫌いは消えていったとも言われます。
更に、江戸時代末期に世に出て、あっという間に全国に広まった染井吉野のおかげで、日本中に花見の風習が広く普及し、深く浸透していったと言えるでしょう。

一方、兵士は桜のように潔く散るべしとして、戦争中は軍国主義の道具として使われた悲しい歴史もありました。
小川龍一でした