寒い冬には詩がいい
教え子よ、詩を読みなさい
3部作
~ 最終回『木』~
さあ、それでは前回に続いて、日●本でも「16歳未満のSNS禁止法」が施行されないよう、中・高生の皆さんは今日もこのブログを読みながら “詩” について学ぼう。そして自分の親にも先生たちにも「ケータイでゲームやYouTubeばかりだと思ったら大間違い! ちゃんと “詩” の勉強もして想像力を働かせています!」とアピールしなさい

そうすれば、“青少年SNS禁止法施行反対同盟”の会長として、ボクがキミたちを必ず守ってあげるから
。

最終回に読んでもらいたい詩は 『木』。作者の田村隆一は大正生まれで東京・豊島区出身の詩人である。1998年に亡くなった彼の生前の活躍をよく知らないボクは、彼の人物像や来歴を知ろうとして “ウィキペディア” を頼った
。
なかなかに波乱万丈な人生を送った人物であることがわかった。そのほんの一部をかいつまんでご紹介する。

高校卒業後に東京ガスに入社するも1日も出社せずに退職したとか、学徒出陣で海軍に入隊したが戦地へ赴く前に終戦を迎えたとか。

戦後、詩作をはじめ多岐にわたって文学活動を行なったとか、イギリスの推理作家で「ミステリーの女王」とも称されるアガサ・クリスティの翻訳なども多く手掛けたとか。

やがて高村光太郎賞・読売文学賞・現代詩人賞などを次々に受賞したとか、その間に5度の婚姻歴があるとか。
ちなみに3人目の妻は、やはり文学界に名を刻んだ岸田衿子で、田村隆一と結婚する前の夫はあの谷川俊太郎である。なお、テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』や『あらいぐまラスカル』の主題歌の作詞者も岸田衿子だ

さて、話を田村隆一の 『木』に戻そう。
実はこの詩、ボクが勤めた都内の某・区立中学校では、2年生の国語教科書(光村図書出版:令和3年度版)に掲載されていた。しかし教科書が改訂された本年度、同じ光村の教科書(令和7年度版)からは姿を消してしまった。
ちょうど今、ボクの目の前にいる中2男子から教科書を借りて実際に確かめてみたが、やはりどこを探しても見つからなかった。実に残念だ
。


今の高1の教え子たちは幸運だったね。『走れメロス』を学んだ少しあとに、こんなに素晴らしい詩を授業の中でじっくりと学べたのだから
。
【学校によっては、この『木』をスキップして授業でやらなかった先生がいるそうな。 「詩を読んで自分の考えを広げる(思考・判断・表現)力をつける」ために重要な単元を飛ばしちゃイカン
。今からでも卒業生を呼び出して追加で補習授業をやらんとね…
】

随分と前置きが長くなってしまった。
では『木』を読んでもらいましょう
。
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『木』
田村 隆一
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ
それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ
それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない
若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない
木
ぼくはきみのことが大好きだ

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この詩の中心に流れているもの、幹となっているものは「ほんとうにそうか ほんとうにそうなのか」という問いかけだろう。言い換えれば、それは「常識を疑うべし」という問題意識の提唱である。
「木は風に吹かれながら静かに立っているもの」というのはあくまで一般的な常識だが、そんな木も実は生きていて、背も伸びるし、喉は渇くし、文句も言うし、ため息もつく。暑い夏には人間や小動物たちに声を掛けて木陰の下で休ませてくれる。そう考えると、常識は常識ではないことがわかってくる
。
その視点で考えれば、「木とは○○というものだ」と一括りで説明する意味もないことがわかる
。
若木、老樹、小木、巨木、細枝、太幹、柔木、堅木、針葉樹、広葉樹、落葉樹、常緑樹、梅、松、桜、杉、檜、桐、欅、柳、楠、柿の木、桃の木、栗の木、リンゴの木、ミカンの木、レモンの木、バナナの木…。
ひと言に「木」といっても、どれも違うんだな。『ひとつとして同じ木がない』という田村隆一の主張は、したがって真実ということになる
。

そもそも “生きとし生けるもの” に全く同一なものがあるはずもない。ネコの肉球の形も、アリの顔つきも、マダイの鱗の枚数も、カラスのツメの長さも、同じってことは絶対にない。だから、『ひとつとして同じ木がない』のも当然の話なんだよな
。
田村隆一は「木は愛のものだ、正義そのものだ」と賞賛したあと、最後に「きみのことが大好きだ」と愛の告白を果たしている
。
そんな田村隆一の単純明快で、一方では深遠で、ある意味では人間味に溢れた表現技法がボクは大好きだ。
キミはどう思う?

ところで、教師を生業(なりわい)としていたボクは、この詩の「木」を「生徒」に置き換えて読んでみた。
予想していた以上に意味が通じるではないか
。
いや、それどころか、まるでこの詩が以前から『生徒』という題名で存在していたかのように不自然さが全くない。
なぜかといえば、「生徒も一人一人に個性があって皆違う」し、「教師は生徒に対して先入観を持って接してはいけない」わけだし、「いつも見方を変えて(多方面から)観察し、評価し、支援しないといけない」からだ
。
一度失敗したからといって、「この子はまた失敗する」と悲観してはいけない。
一度成果を上げたからといって、「この子はできる」と高を括ってはいけない。
学校で忘れ物が多いからといって、「家でもだらしない」と決めつけてはいけない。
リーダー的存在で人望も厚い生徒だからといって、「この子は心配ない。学校生活も充実していると本人も感じているだろう」と安心してはいけない。
まだ子どもだからといって、侮ってはいけない。
そのうち大人に成長するからといって、目を離してはいけない。
ひとりとして同じ生徒はいない
ひとりとして同じ環境の中で
ただ命を営んでいるだけの
生徒などどこにも存在はしない
生徒
ボクはキミたちのことが大好きだ
