織田信長が、尾張一国を制覇して間もない頃
駿河・遠江・三河の守護職であった今川義元が 25,000 の大軍を率いて
上洛を企て、織田軍の出城をことごとく打ち破り尾張領内に侵攻してきたのが
永禄3年5月19日 ( 1560年6月12日 ) のことであった・・・
現在の13時頃、突如豪雨が降り出して視界が悪くなった・・・
その時の 今川軍は桶狭間で中食 (ちゅうじき) のために軍装を解いて
正に食事中にあったとされている・・・
豪雨が止んだ直後の 14時頃、織田軍精鋭 2,000人の部隊は
義元の本隊 5~6,000人に果敢に突撃を開始したのである・・・
義元軍は、戦闘経験がほとんど無い寄せ集めであったと言われており、
織田軍の猛攻に為すすべなく大混乱に陥って背走する結果となり
ついに義元の旗本部隊に信長の親衛隊が突入し、毛利新助によって
義元は討ち取られ、今川軍は壊滅したのである・・・
これが [ 桶狭間の戦い ] の概略であるが
これによって織田信長の名が世間に知れ渡ることになり、
そして天下布武を旗印にしてほぼ覇権を手中にすることになるだが、
その滅亡した代々続いた名家 ・ 今川家の家紋はこれ・・・
↓
二つ引両 ( 清和源氏足利流 )
◆ 〈 今川氏 〉
駿河の守護で戦国大名として有名な今川氏の祖は
足利義氏の二男有氏の子・国氏とされている。
以後、駿河 ・遠江 ・三河の守護大名として君臨していたが
前述の如く 義元 の世間を見通す力量の不昧さによって壊滅する。
しかし、その子・氏真は徳川家康になって召し出され
わずかに [ 高家 ] としてその名をとどめた。
この 〈 今川氏 〉 の歴史を綴ると
元々が 源家・足利氏の流れを汲む守護職だっただけに
かなりの量を費やすことになるが、
今回は一般的に知れ渡っている
「桶狭間の戦い」 に絞って記してみた・・・
次回も、〈 織田信長 〉 が覇権を手にするまでに
対戦した戦国大名を取り上げる予定・・・・・・・
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